an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「子を産むことによって救われるであろう」の解釈

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Ⅰテモテ2:9-15

9 また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。

10 むしろ、良いわざをもって飾りとすることが、信仰を言いあらわしている女に似つかわしい。

11 女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。

12 女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。むしろ、静かにしているべきである。

13 なぜなら、アダムがさきに造られ、それからエバが造られたからである。

14 またアダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。

15 しかし、女が慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら、子を産むことによって救われるであろう。  

 第一コリント14章における女性に対する教えについて - an east windowのコメント欄において、15節の「女が慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら、子を産むことによって救われるであろう」という部分を、「家父長的な愚の骨頂さ」と批判するコメントが寄稿された。コメントした方は、女性である。

 結婚していない女性や何かしら事情で子供がいない女性、家庭をもつことよりもキャリアや使命に対して自分の人生を捧げることを選択した女性に対して、無神経な言葉にしかとれないという意見を持つ方は、このコメントを投稿した女性読者だけではないだろう。

 まずこの教えの目的を見てみよう。それは女性の魂の救い(「救われるだろう」)である。女性の社会的立場や権利について語っているのではない。「つつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾る」ことや、「静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶ」「子を産む」こと自体が目的ではない。

 前節でエバが誘惑に陥り、罪を犯したエピソードが引用されているのは偶然ではない。実際、そのエバの罪との対比として、「しかし・・・子を産むことによって救われるであろう」と結論を出しているのである。

創世記3:16-19

16 つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。

17 更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。

18 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。

19 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。  

 つまり「女は惑わされて、あやまちを犯し」、その罪の結果、「苦しんで子を産み」、そしてアダムと同じように「塵に帰る」という裁きの宣告の言葉を受けたが、それと対照的に「しかし・・・子を産むことによって救われるであろう」という、キリストの恵みによる救いの宣言をしているのである。

 それは恵みによるものであって、「つつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾る」ことや、「静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶ」「子を産む」などを功績として、救いを得る」という、「行いによる救い」の教えでもない。「子を産むことによって」を救いの功績や手段として解釈するのは、「十字架の福音」が啓示する「信仰のみのよる義認」の真理から外れるので、論外である。

 それでは、「出産」が救いの手段という教えが福音的ではないならば、「子を産むことによって」とは何を意味しているのだろうか。それは「与えられた子供を神に畏れる者に育てる」という意味である。実際、信仰者である母親は、信仰者である夫と同じように、自分の子供を神から委ねられた魂と考え、主なる神を畏れるものに教育するという任務が任されていることを自覚する。家庭における一人の信仰者として、身近にいる魂に生きた信仰の見本を示すことが要求されていることを悟るのである。

 それは非常に難しい任務であることは、信仰者ならば誰でも知っている。なぜなら子供たちは私たちの「裸の生活」を見て、よく知っているからである。実際の家庭生活において、私たちがイエス・キリストと日々交わりをもって生きているかどうか、理屈でなく「肌で」知っているのである。

 だからこそ、「慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら」という信仰生活の実践の条件が提示されているのである。子を持つ母親としての信仰者は、自分の子供たちを神の畏れにおいて育てようとする。しかしそれは地上において完成のない務めである。時にいらだち、忍耐を失い、理不尽なことを要求し、一人悩み、主の前で泣き、悔い改め、そして聖霊によって新たな力と知恵を得て、次の日に立ち向かっていく。日々これらのことを繰り返し、主の憐れみによって「慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続ける」。その弱さと脆さをすべて抱えながら主なる神の前にひたむき生きる姿が、身近にいる魂に対する生きた証となるのである。

 だからこの「救われるだろう」という表現は、「まだ救いを経験していないけれど、これらの功績を積み続けたら、死後何とか救われるだろう」という概念ではない。イエス・キリストを信じる信仰によって救いを体験した女性が、日々キリストに従うことによって、信仰者として地上の人生を最後まで全うし、信仰によって既に手にしている救いの完成の最終ゴールに到達するという意味である。

 「慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら」の条件の中で、特に「慎み深く」という条件は意味深い。現代の価値観によれば、この人格上の性質は「謙虚」という価値観と同じく、正しく評価されていない。「押しの弱い」「自己主張のない」性格として、片隅に追いやられた価値観である。しかしこの「慎み深い(σωφροσύνη sōphrosunē、またはσώφρων sōphrōn)がもつ意味は、非常に力強く、美しいものである。それは「精神の堅実さ、健全さ、自制、節制」を意味する。それは「女々しい」という歪んだものではないし、女性特有の美徳でもない。その徳は、「長老(男性)に求められている霊的・人格的資質」として、「男女の老齢の信仰者、若い女性の信仰者、若い男性の信仰者が持ちべき資質」として、聖書の中で啓示されているからである。

Ⅰテモテ3:2-7

2 さて、監督は、非難のない人で、ひとりの妻の夫であり、自らを制し、慎み深く、礼儀正しく、旅人をもてなし、よく教えることができ、

3 酒を好まず、乱暴でなく、寛容であって、人と争わず、金に淡泊で、

4 自分の家をよく治め、謹厳であって、子供たちを従順な者に育てている人でなければならない。

5 自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか。

6 彼はまた、信者になって間もないものであってはならない。そうであると、高慢になって、悪魔と同じ審判を受けるかも知れない。

7 さらにまた、教会外の人々にもよく思われている人でなければならない。そうでないと、そしりを受け、悪魔のわなにかかるであろう。 

テトス1:6-9

6 長老は、責められる点がなく、ひとりの妻の夫であって、その子たちも不品行のうわさをたてられず、親不孝をしない信者でなくてはならない。

7 監督たる者は、神に仕える者として、責められる点がなく、わがままでなく、軽々しく怒らず、酒を好まず、乱暴でなく、利をむさぼらず、

8 かえって、旅人をもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、信仰深く、自制する者であり、

9 教にかなった信頼すべき言葉を守る人でなければならない。それは、彼が健全な教によって人をさとし、また、反対者の誤りを指摘することができるためである。 

テトス2:2-6

2 老人たちには自らを制し、謹厳で、慎み深くし、また、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように勧め、

3 年老いた女たちにも、同じように、たち居ふるまいをうやうやしくし、人をそしったり大酒の奴隷になったりせず、良いことを教える者となるように、勧めなさい。

4 そうすれば、彼女たちは、若い女たちに、夫を愛し、子供を愛し、

5 慎み深く、純潔で、家事に努め、善良で、自分の夫に従順であるように教えることになり、したがって、神の言がそしりを受けないようになるであろう。

6 若い男にも、同じく、万事につけ慎み深くあるように、勧めなさい。 

 結論として、この「女が慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら、子を産むことによって救われるであろう」という教えは、母親としてだけではなく、女性として、そして一人のキリストの証人として、神に与えられた人生を日々をいかに最後まで責任を全うしていくかを語っているのであって、実に高貴で美しいあり方を表している教えである。

 

追記:15節についてさらに調べてみると、「持ち続ける」と和訳されている原語「μεινωσιν」は、Textus RecptusやByzantine Majority、Alexandrian、Hort&Westoctt、Nestle Aland28などにおいてすべて三人称複数である。その場合、KJVのように「they continue」と訳し、「持ち続ける」の主語を「子供たち」とする。「救われるだろう」の原語は単数だからである。つまり、「しかし、(女が産んだ子らが)慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら、(彼女は)子を産むことによって救われるであろう」という意味になる。

KJV:Notwithstanding she shall be saved in childbearing, if they continue in faith and charity and holiness with sobriety. 

 しかし、Weymouth New Testament訳では、複数形を「女と彼女の夫」と解釈して訳している。

Yet a woman will be brought safely through childbirth if she and her husband continue to live in faith and love and growing holiness, with habitual self-restraint.

 すべての日本語訳は「持ち続ける」のが「女」であると訳している。イタリア語訳では、17世紀のDiodati訳以外はすべて主語が「女」として訳されている。

 記事の最後の部分で書いたように、「慎み深さ」が女性だけではなく、性別や年代の違いを超えて信仰者として重要かつ必要不可欠な徳であることを考慮すると、「女性が慎み深く、信仰と愛と清さと持ち続ける」とするのも、「その女性が生んだ子供たちが慎み深く、信仰と愛と清さと持ち続ける」と解釈するのも、根本的な意味では同じであろう。ただ母親の信仰の証が子供たちの信仰においてすでに実を結んでいる、という意味で、母親である信徒にとってより大きな希望であると同時に、より大きな挑戦でもある。