「道」としての神の愛
Ⅰコリント12:27-14:1
12:27 あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。
12:28 そして、神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、次に力あるわざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれた。
12:29 みんなが使徒だろうか。みんなが預言者だろうか。みんなが教師だろうか。みんなが力あるわざを行う者だろうか。
12:30 みんながいやしの賜物を持っているのだろうか。みんなが異言を語るのだろうか。みんなが異言を解くのだろうか。
12:31 だが、あなたがたは、更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい。そこで、わたしは最もすぐれた道をあなたがたに示そう。
13:1 たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
13:2 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
13:3 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
13:4 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、
13:5 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
13:6 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
13:7 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
13:8 愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
13:9 なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
13:10 全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
13:11 わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。
13:12 わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。
13:13 このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。
14:1 愛を追い求めなさい。また、霊の賜物を、ことに預言することを、熱心に求めなさい。
第一コリントの第13章は「愛の章」として呼ばれ、よくキリスト教の結婚式の中でも朗読される箇所である。しかし文脈上の観点から読むと、異言やその解き明かし、預言などの霊的賜物に関しては恵まれていたがその目的、つまり教会の徳を高めるという点に関してひどく混乱していた当時のコリント教会に対して、霊の賜物の性質とその目的を正しく理解することによってそれらの賜物を神の御心に従って熱心に求めるように、霊感を受けた使徒パウロが12章の部分と14章の部分の間に挿入したものである。
実際、「あなたがたは、更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい。」(12:31)と「霊の賜物を、ことに預言することを、熱心に求めなさい。」(14:1)、「だから、あなたがたも、霊の賜物を熱心に求めている以上は、教会の徳を高めるために、それを豊かにいただくように励むがよい。」(14:12)、「わたしの兄弟たちよ。このようなわけだから、預言することを熱心に求めなさい。また、異言を語ることを妨げてはならない。」(14:39)と繰り返し勧めている。
ちなみに12:1の「賜物 charismata」も14:1の「霊の賜物 pneumatika(直訳:霊のもの)」も複数形で冠詞を伴っているので、それは具体的に12章の中で列記されている九つの霊の賜物を指している。
Ⅰコリント12:4-11
4 霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。
5 務は種々あるが、主は同じである。
6 働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。
7 各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。
8 すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、
9 またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、
10 またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。
11 すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。
そして使徒パウロはこれらの霊の賜物を熱心に求める上で、「最も優れた道(単数)」として「愛の章」を挿入しているのである。それはあくまで「道」であって、「門」でも「終点」ではないことは非常に意義深い。それはつまり、信仰者は主イエス・キリストの恵みによってある時からその道を歩みはじめ、信仰によって一歩一歩進んではいるが、地上においてはその歩みが終わることはないことを暗示している。言い換えれば、誰も自分の目の前に続く道に立ち、「自分はもう到達したから歩む必要ない」と言えないのである。
このことを明確に実感する最も簡単な方法は、13章の「愛」という単語の代わりに自分の名前を入れ、鏡の前で声に出してみて読めばいいだけである。(このテストは周りに誰もいない時にすることをお勧めする。そうでないと思わしくない「副作用」が生じる可能性が大きい。)
〇〇は寛容であり、
〇〇は情深い。
また、ねたむことをしない。
〇〇は高ぶらない、
誇らない、
不作法をしない、
自分の利益を求めない、
いらだたない、
恨みをいだかない。
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、
すべてを信じ、
すべてを望み、
すべてを耐える。
〇〇はいつまでも絶えることがない。
もしこのテストで自分にうんざりしたり、恥ずかしく感じない人がいるとすれば、その人は神の子、主イエス・キリストであると言える。なぜならここで啓示されている「愛」とは一般的な愛のことではなく、神ご自身であり、その「道」は主イエス・キリストご自身のことだからである。
Ⅰヨハネ4:8b
神は愛である。
ヨハネ14:6
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。
14:1において「愛を追い求めなさい」と訳されている動詞【διώκω diōkō】も「歩むべき道としての神の愛」という啓示を反映している。それは「後ろについて行く」とか「追う」「(とことんまで)追い求める」などの意味を持つ。それは決して「獲得して満足している」「自分の行くところに連れて行く」というニュアンスではないのである。
マラソン競技において、折り返し地点をゴールと勘違いして観客にガッツポーズしながらコースを外れればその人は恥をかくだろう。同様に「あと20KMも走れない!」と思ってあきらめてしまえばゴールに辿り着くことは決してない。
ピリピ3:8-14
8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、
9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。
10 すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、
11 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。
12 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
13 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
そしてこの「最も優れた道」と、「更に大いなる賜物を得ようと熱心に努める」ことや「霊の賜物を、ことに預言することを、熱心に求める」ことは、お互い正反対の方向に向かっているものではなく、同じ方向を向いていることにも注意しなければいけない。つまり御霊の働きにへりくだり、キリストの体である教会全体の徳を高め、その益を求めるという目的に留まるならば、「知恵の言葉」や「知識の言」、「信仰」、「いやしの賜物」、「力あるわざ」、「預言」、「霊を見わける力」、「種々の異言」そして「異言を解く力」を得ようと熱心に求めることは、神の愛の顕現に相反することではないのである。
この真理は、私たちが漠然と「神からの知識や知恵、預言を求めること」を「愛」の反立と見なしてしまう間違いから守ってくれるだろう。
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