an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「幼子」、そして「乳母」「父」のように

 『新改訳2017』では、Ⅰテサロニケ2:7が以下のように変更されているらしい。

さて、底本が変わることによって翻訳にどれくらい違いが生じるのでしょうか。実のところ、底本が変わっても、本文の変更は全体から見ればごく一部です。また変更された箇所でも、多くの場合、訳の違いはあまり生じません。しかしまた、数は少なくても、大きく変わった箇所があることも事実です。

その一つ、テサロニケ人への手紙第一2章7節を紹介しましょう。NA25版まで本文に採用されていた「エーピオイ=優しい」という語が、26版以降は「ネーピオイ=幼い」に変わりました。ギリシャ語の一文字(ローマ字にすると〈n〉)が加わっただけなのですが、その結果、前後の節も含めて訳文が変わることになりました。

2章6-8節全体をごらんください。まずは、第三版までの訳、それから、『新改訳2017』の訳です。特に重要な部分には太字にしておきます。

6 また私たちは、あなたがたからも、ほかの人たちからも、人からの栄誉は求めませんでした。

7 キリストの使徒として権威を主張することもできましたが、あなたがたの間では幼子になりました。私たちは、自分の子どもたちを養い育てる母親のように、

8 あなたがたをいとおしく思い、神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています。あなたがたが私たちの愛する者となったからです。

 要するに底本(翻訳のベースとなったギリシャ語聖書。この場合、最新のNA28版とそれに対応するUBS第5版)において、以前の新改訳バージョンの底本であったNA24版から変更があったからだという。(UBS修正第3版を底本とする新共同訳1987版では、すでに「幼子のようになりました」となっている。)

「ネーピオイ=幼い」では意味が通じないとか、パウロが回心者たちの未熟さに言及するときに使うこの語を、自分自身に使うはずがない、といったことで、「エーピオイ=優しい」が本来の読み方とされてきました。

「ネーピオイ」は、うっかりミスで語頭に〈n〉がついてしまったと説明されてきました。しかし、「ネーピオイ」という読み方のほうが、有力な写本の支持を得ていること、また、それを採用しても、十分に意味をたどることができるということで、判断が覆ったのです。

実際、「ネーピオイ」で6-8節全体を訳し直すと、「使徒」との対比で「幼子」の比喩は生きてきます。つまり、権威を振りかざすことをしないパウロの姿勢が、「幼子」の一語でより印象深く表現されていることが分かります。そればかりか、子どもを養い育てる母親というもう一つの比喩も、8節に直接つながって、とても豊かな表現であることが明らかになります。

 確かに「幼子のようになりました」という霊性は、使徒パウロがエペソ教会に書き送った手紙においても確認できる。

エペソ3:7-9

7 わたしは、神の力がわたしに働いて、自分に与えられた神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのである。

8 すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、

9 更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである。 

  自分が全ての信徒たちのうちで最も小さい者であり、福音の僕として仕えていると強調している。

 また自ら宣教し建て上げたコリント教会へは、自分が使徒と呼ばれる値打ちのない者と遜っている。

Ⅰコリント15:9-10

9 実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。

10 しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。 

 この「謙遜」と「献身的奉仕」の霊性は、誰が一番偉いかと互いに言い争っていた弟子たちを戒めた御子の教えにおいても確認することができる。

マルコ9:33-37

33 それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるとき、イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。

34 彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。

35 そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。

36 そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。

37 「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。

ルカ22:24-27

24 それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。

25 そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。

26 しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。

27 食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。 

 このように『新改訳2017』によれば、使徒パウロはテサロニケ教会へのこの短い言葉の中で、自分たちを「誇ることのない幼子」、そして「子供たちを養い育てる乳母(τροφός trophos)」また「子供たちを教え導く父親」という、三つの在り方で提示していることになる。

(岩波翻訳委員会訳1995)

7 キリストの使徒として重んじられることができたにもかかわらず〔、私たちはそうしなかった〕。むしろ私たちは、あなたがたの間では、ちょうど乳母が彼女自身の〔実の〕子供たちを育むように、優しくなった

11 また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、

12 ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。 

 信徒たちは「使用人」、酷い場合には「搾取すべき奴隷」、そして自分は「絶対服従すべき主人」として振る舞う「指導者」も少ないない時世において、この御言葉は鋭い光を放っている。