過去に万人救済論の検証に関する記事(1)~(5)を書いたが、改めて異なる観点を共有したいと思う。
この観点は、万人救済論を説く人々の間では勿論だが、おそらく現代の一般的福音宣教の中でもあまり聞くことがない内容かもしれない。それでも、聖書の中に明確に啓示されている真理であることには変わりない。だから私は半信半疑の読者と共に、その聖書の啓示を確証していきたいと思う。
万人救済論(普遍救済論)は、すべての人に対して「あなたはキリストにあってもうすでに救われている」と宣べ伝える。つまり、イエス・キリストは二千年前に全人類の救いのために十字架の上で贖罪のわざを成し遂げ、そのわざは完全であるから、すべての人はもう救われているのである、という意味である。
しかし「イエス・キリストがすべての人のために死んだ」という事実の霊的意味に関して、使徒パウロの啓示を見てみよう。
Ⅱコリント5:13-15
13 もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。
14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。
「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。」 イエス・キリストの十字架の死は、「すべての人のための死」であったと同時に、「すべての人の死」であったのである。「最後のアダムとして全人類を代表する死」であったと同時に、「最初のアダムに属する全人類を包括する死」でもあった。
「私たちはこう考えている」 これは使徒パウロ一人の単なる思い付きや推測ではなく、他の信仰者と共有されていた確信であった。実際、「思う」と和訳されている原語「κρίνω krinō」は、「決定する、識別する、裁定する、判決を言い渡す、結論する」など、決定的な判断の意味をもつ言葉である。(KJV訳では、because we thus judgeと訳されている。)イエス・キリストが「私たちのために死んだ」ということを確実なこととして受け入れたように、「私たちは彼と共に死んだ」ということも確実なこととして信仰によって受け入れたと宣言しているのである。
つまり使徒パウロがコリントの信徒たちに共有している確信は、「わたしたちの古い人はキリストと共に死んだ」という霊的事実である。そしてその真理は、コリントだけに向けて語られていたものであなく、その他の教会に向けて書かれた使徒パウロの手紙の中に、何度も繰り返し啓示されているものである。
ローマ6:3-11
3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。
10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。
ガラテヤ2:19-20
19 わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。
20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。
コロサイ2:20-21
20 もしあなたがたが、キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、なおこの世に生きているもののように、
21 「さわるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのか。
コロサイ3:1-3
1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。
コロサイ2:20も3:3も同じ第二アオリストの能動態であり、「すでに死んだ」である。
そしてその「すでに死んだ」古い私たちの死は、同時に、「裁き」を意味している。なぜなら御子イエス・キリストの十字架の死は、「罪に対する神の決定的な裁き」を意味していたからである。
ローマ6:6
わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
それゆえ、イエス・キリストの十字架の死が全人類に向かって発しているメッセージは、万人救済論者が説く「あなたがたはすでに救われています」というものではなく、「あなたがたはすでに死んだ」「あなたがたはすでに裁かれた」という使信である。
勿論、この時点で終わってしまっていたら、罪びとには何の希望も救いもない。しかし「御子の福音」は、「十字架の死」と共に、「死からの復活」も語っているのである。
ローマ6:4
すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
だからこの福音を信じる者は、古い人において「すでにキリストと共に死んで裁かれてしまった」のだから、神の裁きから解放され、キリストの復活を信じることによって「義とされる」つまり「救われる」のである。
ローマ4:24-25
24 わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。
25 主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。
万人救済論は「神は愛です」と言って、神の怒りや裁きを無視し、救いを提示する。しかしもし神の罪に対する裁きがないのなら、何から救われなければならないのか。「古い人」が裁かれないで「すでに救われている」のなら、なぜ「新しい人」に生まれ変わらなければいけないのか。
ヨハネ3:1-5
1 パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。
2 この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。
3 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。
4 ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。
5 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。
「自分はすでに救われている」ことをただ受容するだけで、現実的に何から救われているか実感がないとき、何に対して感謝すればいいのだろうか。社会人として普通の生活している人に、「あなたは刑務所の外にいます。あなたは死刑を受けません。」と言ったところで、その人は喜ぶだろうか。しかしもしその人が実際に電気椅子に縛り付けられていて、しかも死刑から免れる唯一の可能性があるなら、その人は叫ぶだろう。「私を救ってください!」と。
以下の峻厳な宣言は、救いが実感の伴わない単なる受容ではなく、「御子を信じる」という個人的な意思を伴う信仰によることを明確に啓示している。
ヨハネ3:16-21
16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
17 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。
18 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。
19 そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。
20 悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。
21 しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。
有名なヨハネ3:16において、万人救済論は、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それはこの世が永遠の命を得るためである。」と読む。しかし聖書は「御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」と宣言しているのである。
追記:しかし現代の福音派教会による福音宣教は、教義上は万人救済論を否定しているが、宣教の実践において同じことをしているのではないだろうか。私たちは、「人を量るはかりで、自分を量る」「まず自分の目から梁を取りのける」必要があるだろう。
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