an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

レンズ豆の煮物の悲劇

へブル12:16

一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。

 エサウの家は非常に裕福であった。彼の祖父アブラハムから全財産を受け継いだイサクは、近隣の民が激しくねたむ程栄え、富を持っていた(創世記25:5;26:13)。双子の長男だったエサウは、そのほとんど全ての富を受け継ぐ権利、「長子の権利」を持っていた。しかし、エサウはその権利を一皿のレンズ豆の煮物で売ってしまったのである。長子の権利に、一皿のレンズ豆の煮物の値をつけたのである。「わたしは死にそうだ。長子の特権などわたしに何になろう」(創世記25:32)その一瞬の空腹という誘惑に負けてしまったのである。

 エサウのこの悲劇的な選択は、私たちにまず非常に具体的かつ現実的な教えを残している。自分の義を建てるためではなく、神との交わりを食事よりも優先するという目的の断食は、多くの祝福をもたらす。それと同様に、ごく日常的な食事の前に、まず神に対する感謝の祈りをささげ、その食事の祝福を求めることは非常に大切なことである。私たちの生活が、本能的な衝動によって動かされることがないためである。たとえその本能が神によって造られたものであったとしても。

 聖書が言う「肉の人」は、感情や感覚、本能などによって治められている。しかし、「霊の人」は霊によって治められている感情や感覚、本能を備えている。この違いは非常に大きい。

 

使徒パウロは、ガラテヤ5:16-26でこう書いている。

わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。 

肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。 

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 

キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。 

互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。

 本来、霊によって治められるべき感情や本能、知性さえもが、肉に治めれ導かれているから、「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、など」が生じてくるのである。愛と平和の霊によって導かれていないから、猜疑心、偏見、敵意、党派心、優越感、虚栄心などに縛られ閉じ込められてしまい、さらに肥大化した自己の中に孤立していってしまうのだ。

 創世記25:27に実に興味深いことが書かれている。

エサウは巧みな狩猟者となり、野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた。

 「狩猟者で野の人」と「穏やかな人で天幕に住む人」。随分と不思議な対比である。「狩猟」というある種の労働と、「おだやかである」という一人の人間の性質が対置されているのである。まるでエサウの激しく軽率な気性がもたらすことになる悲劇を暗示しているかのように、「狩猟者で野の人」という表現が置かれている。弟ヤコブは、父の富の中で穏やかに生活していたが、兄エサウは父を喜ばせるという理由で狩りに出かけ、結局それがきっかけとなり、最悪な選択をして父を悲しませてしまうことになった。そういえば、ヤコブがエサウの代わりに父イサクに最後の祝福を受けた時も、エサウは狩りをしに野に出ていた。

この面においては、「エサウとヤコブ」は「肉と霊」のシンボルだとも言える。

 霊の人は、父なる神の無尽蔵な富の「中」に休み、霊の実を結ぶ。しかし肉の人は、キリストの霊から「外」に出て、せわしく働くのであるが、それは結局、神の恵みをないがしろにすることである。エサウが一杯のレンズ豆の煮物で長子の特権を譲ってしまったように。