生けるキリストを求めて(54)天幕に住む「約束の子」ヤコブ
創世記25:27-34
27 さてその子らは成長し、エサウは巧みな狩猟者となり、野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた。
28 イサクは、しかの肉が好きだったので、エサウを愛したが、リベカはヤコブを愛した。
29 ある日ヤコブが、あつものを煮ていた時、エサウは飢え疲れて野から帰ってきた。
30 エサウはヤコブに言った、「わたしは飢え疲れた。お願いだ。赤いもの、その赤いものをわたしに食べさせてくれ」。彼が名をエドムと呼ばれたのはこのためである。
31 ヤコブは言った、「まずあなたの長子の特権をわたしに売りなさい」。
32 エサウは言った、「わたしは死にそうだ。長子の特権などわたしに何になろう」。
33 ヤコブはまた言った、「まずわたしに誓いなさい」。彼は誓って長子の特権をヤコブに売った。
34 そこでヤコブはパンとレンズ豆のあつものとをエサウに与えたので、彼は飲み食いして、立ち去った。このようにしてエサウは長子の特権を軽んじた。
新約聖書の啓示によると、ヤコブは父イサクと同様、「約束の子」であった。
ローマ9:8-12
8 すなわち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである。
9 約束の言葉はこうである。「来年の今ごろ、わたしはまた来る。そして、サラに男子が与えられるであろう」。
10 そればかりではなく、ひとりの人、すなわち、わたしたちの父祖イサクによって受胎したリベカの場合も、また同様である。
11 まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、
12 わざによらず、召したかたによって行われるために、「兄は弟に仕えるであろう」と、彼女に仰せられたのである。
「兄は弟に仕えるだろう」という預言の言葉を直接個人的に受けていた母リベカは、双子の弟ヤコブの方を愛した。その母の愛を受けて、ヤコブは兄エサウのように狩猟者となって野で動き回るより、母と共に天幕で過ごすことを愛した。
おそらく母リベカはヤコブに、自分が受けていた神の計画について何度も教え聞かせていただろう。ヤコブもその言葉を信じて、神の約束の成就の時を待っていたのである。ヤコブが「穏やかな人で、天幕に住んでいた」という記述は、そのようなヤコブの心の姿勢を暗示している。エサウが「長子の権利」という最も重要な点において父イサクを喜ばせるのではなく、父の好みのシカの肉によって喜ばせようと野を駆け回っていたのとは非常に対照的である。
このエサウとヤコブの対照的のあり方は、「肉」と「霊」の対比、さらに正確に言うならば、「肉の働き」と「御霊の実」の対比を象徴的に表している。
ガラテヤ5:16-25
16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
18 もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。
19 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、
20 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、
21 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、
23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
24 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
25 もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。
エサウが獲物を狙って野を走りまわっていたように、「肉」はその欲するところに従ってたえず「働こう」とする。エサウが父イサクを喜ばせるために鹿を狩猟していたように、「肉の働き」は「神のため」「神の御心のため」という宗教的大義の衣で装うこともある。偶像礼拝、争い、怒り、党派心、分裂、分派などがその顕れである。
しかし「約束の子」ヤコブが天幕の中で穏やかに生活していたように、キリスト・イエスに属する者は、自分の「肉」を十字架につけ、神の約束の中に静かに休み、神の時に従って、御霊の実を結ぶのである。
ヨハネ15:1-11
1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
2 わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。
3 あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。
4 わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。
5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。
6 人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。
7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
8 あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。
9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。
10 もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。
11 わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。
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