「苦い根」と「朽ちない種」
へブル12:14-17
14 すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。
15 気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。
16 また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。
17 あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。
ここでは明確に、信仰者が自ら信じている主なる神、目では見ることの決してできない神を「見る」ことができるようになるためには、「聖化」が絶対に必要不可欠であることが啓示されている。そして「主を見る」とは、ただ単に「主なる神に関する聖書の知識を得る」こととも、「信じて罪の赦しを得る」ことだけでもなく、「個人的に主と霊的交わりを持つ」ことであり、それを「継続的に最後まで求め続ける」こと、要するに「主を愛する」ことを意味する。
「すべての人と相和すること」「自らきよくなること」が求められているのは、主なる神は平和のうちにおり、完全な平和と神聖さの源泉そのものであるからである。
Ⅰペテロ1:15-16
15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。
マタイ5:8-9
8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
「努めなさい διώκω diōkō」ということは、「平和」や「聖化」がただ受け身の姿勢で何もしないで神から与えられるのを待つというのではなく、「求めて獲得していく」ものであることが理解できる。なぜならその過程には、多くの霊的戦いがあるからである。以下の警告がそれを示している。
- 気をつけて、神の恵みからもれることがないように
- 苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないように。
- 一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないように
つまり信仰者はその歩みにおいて、「神の恵みからもれること」も、その心に「苦い根がはえ出て、悩まし、その苦い根によって多くの人が汚されること」も、「不品行で俗悪な者になること」も現実的な可能性として存在していることを示している。
特に「苦い根が生え出て、あなた方を悩ます」という悪の働きは、心の隠れた深いところで起こることなので、本当に気を付けなければいけない誘惑であろう。確かにここでは「苦い実」とは表現されていない。植物の根が目に見えない地中に育ち、静かに、そしてより深く伸ばしていくように、多くの場合、霊的な「苦い根」は私たちが気づかないうちに深く根を張っていることが多いからである。
それでは、おそらく誰でも感覚的には理解できるであろう「苦い根」とは、聖書的にどのようなものだろうか。
申命記29:16-19
16 われわれがどのようにエジプトの国に住んでいたか、どのように国々の民の中を通ってきたか、それはあなたがたが知っている。
17 またあなたがたは木や石や銀や金で造った憎むべき物と偶像とが、彼らのうちにあるのを見た。
18 それゆえ、あなたがたのうちに、きょう、その心にわれわれの神、主を離れてそれらの国民の神々に行って仕える男や女、氏族や部族があってはならない。またあなたがたのうちに、毒草や、にがよもぎを生ずる根があってはならない。
19 そのような人はこの誓いの言葉を聞いても、心に自分を祝福して『心をかたくなにして歩んでもわたしには平安がある』と言うであろう。そうすれば潤った者も、かわいた者もひとしく滅びるであろう。
使徒8:23
おまえには、まだ苦い胆汁があり、不義のなわ目がからみついている。それが、わたしにわかっている」。
へブル3:12-13
12 兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。
13 あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。
これらの聖句には、以下のような要素が見られる。
- 神以外のこと(そこには「自己」も含まれる)を神の地位に置き、それに仕える偶像崇拝
- 根が土の中に深くはり、土と一体になるような「不義による束縛」
- 不信仰な心
- 罪の惑わし
- 不従順で頑なな心
- 「心をかたくなにして歩んでもわたしには平安がある」という、神の裁きを畏れない傲慢な心
「気を付けて」 信仰者がこれらの「苦い」要素に対して「気を付ける」ことができるのは、自分に新しい命を与えてくれた「種」である神の御言葉を畏れ、それを守り続けることだけだろう。御言葉にこそ私たちを守る力があり、その力は私たちの目に見えない領域に深く働きかけ、「苦い根」の断ち切る力を持っているからである。
Ⅰペテロ1:23
あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。
マルコ4:26-29
26 また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。
27 夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
28 地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。
29 実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである」。
へブル4:11-13
11 したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。
12 というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。
13 そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。