an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

隠れた王

ヨハネ6:15

イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。

 キリストは、実際に天地創造以前から「王の王、主の主」であった。人々は彼を王として祭り上げようとしていた。しかし、キリストはただ一人、山に退かれた。

なぜ、自分が王であることを人々が認めるのを良しとしなかったのだろうか。人々が求めていた王像と、自分の王としての本質が全く異なっていたからである。キリストは人々の称賛を必要としていなかった。ただ彼らが真理を知ることを望んでおられたのだ(ヨハネ18:37)

 自分達の求めていた王とは異なることが判った時、人々はイエスの頭に茨の冠を載せ、平手で打ち続けた(ヨハネ19:3)。

  礼拝において王なる主イエス・キリストを褒め称え、賛美を捧げることは良いことである。賛美歌を歌っていると、この世の重荷やしがらみから解放され、心が喜びで満たされる。

 ただ、時にこの「イエスは、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただ一人、山へ退かれた」という事実を心に留め、主イエス・キリストが私たちの礼拝でまず求めていることは何か、絶えず自省することが必要だろう。 

ミカ6:6-8

「わたしは何をもって主のみ前に行き、高き神を拝すべきか。燔祭および当歳の子牛をもってそのみ前に行くべきか。 

主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか」。 

人よ、彼はさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。