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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

什一献金について(1)

 福音主義教会で多く教えられている「什一献金」(救われたものには、全収入の十分の一を献金する「義務」がある、という教え)に関しては、すでに多くの人が議論し文章にしていることなので、私があえて書く必要もないのかもしれないが、疑問や戸惑いを感じている方がまだいると思うので、聖書の引用しながら私なりにまとめた考察を共有できたらと思う。

 まず結論から書き、そして聖書の関連聖句を検討しながら説明したい。読者の方には、実際に聖書を開いてもらい、個人的に考察していただき、納得した結論を導き出していただけたら、と思う。

 結論から言えば、新約聖書には「什一献金制度」の教えはなく、従ってもしあるキリストの教会がこの教えを教えることがあったとしても、それは聖書に基づくものではない。またこの制度を教会員に義務付けることはできない。そしてたとい牧師や教師、宣教師、教会役員が什一献金を捧げるように言ってきたとしても、もし捧げる本人の意思で喜んで献金できないと判断すれば、それを拒否できるし、拒否したとしても「神の前で盗み働く」ことにはならない。従って拒否したことによって誰かに非難されたとしても、神の前で良心の咎めを感じる必要は全くない。なぜなら、主イエス・キリストは、什一献金を要求していないからだ。

 ただ、どんなテーマでも同じだが、拒否、反対するだけではいけない。本当に聖書が求めていることを探す必要がある。新約聖書のみならず、聖書全体が重きを置いていることは、献金だけではなく、奉仕、仕事、その生活すべてにおいて、「キリストの贖いによる清められた良心」と「自由意志」とをもって、「喜んで心から捧げる」ことである。信仰と感謝、喜びをもって捧げるなら、全収入を捧げようが百円玉一つ捧げようが、それは神の前では全く同じことである。

Ⅱコリント9:7

各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。

 この聖句には献金の割合など書いておらず、むしろ「義務」という概念を超えていることが明らかにされている。

 

まず旧約聖書の中の関連した記述を検証してみよう。

1.旧約聖書の教え:

  • 旧約聖書で初めに什一について言及している個所は、アブハム(アブラハム)がケドルラオメルと他の三人の王らの連合軍と戦って勝利したとき、シャレムの王でありいと高き神の大祭司であったメルキセデクに、すべての戦利品の十分の一を捧げた箇所である(創世記14章 アブラムは彼にすべての物の十分の一を贈った。 20節)。この個所を実際に読むと、アブラハムがメルキセデクに捧げたのは、ケドルラオメルらが奪い去ったもので取り戻すことができた戦利品の十分の一であった、と理解できる。彼がそれを捧げたのは、自らの力によってではなく、神の助けによって5人の王らとの戦いに勝利し、そして略奪品を取り戻すことができたという事実を、ソドムの王に明らかに示すためであった。だからこそ取り戻した財産をソドムの王がアブラハムに贈与しようとしたとき、「天地の主なるいと高き神、主に手をあげて、わたしは誓います。 わたしは糸一本でも、くつひも一本でも、あなたのものは何にも受けません。アブラムを富ませたのはわたしだと、あなたが言わないように。」(22,23節)と言って断ったのである。つまりアブラハムは戦って取り返したソドム王の富を自分が獲得した取り分と考え、その十分の一をメルキセデクにささげたのではなかった。この事例はモーセの律法が与えられる前の時代に属する、という理由で、什一献金制度を正当化するためしばしば引用されるが、文脈や詳細を無視した不適切な解釈だと言える。
  • アブラハムがその後、大祭司メルキセデクに十分の一を納め続けたという記述は見当たらない。アブラハムとメルキセデクの関係に関する記述も、この後出てこない。もしアブラハムがメルキセデクに納めなかったとしたら、誰に納めていたというのだろうか。またこの事例以外でアブラハムが神に十分の一を捧げたという記述は全くない。行く先々で祭壇を立て、神に礼拝を捧げていたにも関わらずである。
  • 同様に、ヤコブが兄エサウから逃げたとき、べテルにおいて天の幻をみ、誓って「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。 わたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」と言った(創世記28:20-22)。しかしヤコブが、この条件つきの誓いをその後守ったかどうかは、聖書は明らかにしていない。
  • モーセの律法のよると、地の十分の一は地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものであって、主に聖なる物であった(レビ27:30-34)。しかし「地」と言っても限定があり、主なる神がイスラエルの民に与えると約束していた土地での産物に限られていた(申命記26:1,2)。実際、エジプトを出たイスラエルの民が十分の一を捧げるようになったのは、ヨルダン川を渡って約束の地に入ってからだった。バビロニア捕囚時代には、什一の献納物を受け入れていたという記録もあるが特殊なもので、ヘレニズム(ギリシャ文化圏)では穢れた土地のものとして捧げることができなかった。 
  • 十分の一は主のものであったので、主の会見の幕屋の働きのために聖別されていたレビびとだけが、それを受け取ることができた。その代り、レビびとは約束の地で自分たちのために土地を所有することができなかった(民数記18:21‐24)。この戒めがあったからこそ、人間的にはユダ族に属していたイエスも、ベンヤミン族であった使徒パウロも十分の一の徴収しなかったし、教えもしなかったのである。もし彼らがそれを教えたり徴収していたら、神の律法に逆らうものとして裁かれていただろう。なぜなら、当時はまだエルサレムの神殿における礼拝が行われており、レビ人がそこで仕えていたからである。この点に関して、牧師は教会の働きのために聖別された祭司のようなものである、と霊的に曲解する人々がいるが、新約聖書はむしろ、私たちがもともと神の選民ではなく(キリストを信じたユダヤ人は例外だが)、主なる神に仕える資格も権利もなかったものだったが、イエス・キリストの恵みによって今、救われたすべての人が祭司であると教えている(Ⅰペテロ2:9)。また、もし什一を徴収する権利を主張するためにこの戒めを適用するのならば、「土地の所有を認めない」というこの戒めのもう一つの側面も適用しなければいけないはずである。
  • 十分の一は地の産物が主であった(申命記14:22-26;Ⅱ歴代31:5,6;ネヘミヤ10:37)。特に興味深いのは、申命記の戒めで、もし一人のひとがエルサレムから物理的に離れて住んでいて、地の産物の十分の一全てをもっていくことが難しい場合は、その土地で金に代え、その金を持ってエルサレムへ行き、その金をすべて使って牛や羊、葡萄酒など好きなもの買い、主の前にささげなければいけなかった(「主の前で食べる」とは、捧げたものをレビびとと共有して食べるということを意味していた)。什一分の金をそのまま捧げる方が、合理的だと思うが、主に祝福された地の産物を主の前で喜んで共有する、ということが重要だったのである。
  • 何より大事だったことは、地の産物の十分の一を捧げる目的で、申命記14:23には「こうして常にあなたの神、主を恐れることを学ばなければならない」 と書いてある。まるで神を畏れないような献金の使い道、個人的虚栄のための悪用乱用の知らせ聞く度に、この御言葉を思い出す。
  • アブラハムの事例と共によく引用される聖句が、マラキ3:8-10である。しかもこの聖句を使って、什一献金をしない信者に対して「神のものを盗んでいる」と宣告しているケースまである。しかし、この戒めは律法の下にあったイスラエルの民に向かって語られた言葉であることを無視してしまっている(10節は非常に具体的である。宝物倉に携えて来て、私の家の食物とせよ)。それ故、「あなたは神のものを盗んでいる」という非難も、また逆に「あなたが什一献金すればあふれるばかりの祝福を受けるだろう」という約束も、福音的土台を持っていないので受け入れる必要はない。私たちが祝福を受けることができるのは、イエス・キリストの贖いを信じるからであって、決して戒律を守った報いとしてではないからである。「あなたは神のものを盗んでいる」と非難されるべき者は、信者が神に捧げた献金を、利己的な目的のために不誠実な方法で浪費する者であって、什一献金をしない信者では決してない。

2.キリストの教え:

  • イエス・キリストが地上で公的働きした当時、エルサレムの神殿における礼拝は執り行われていた。大祭司やレビびとなどが新約聖書の中に登場するのはそのためである。当然、前述のようにユダ族の属していたイエス・キリストは、什一を教えたり、徴収したり、それを使用したりすることはできなかった。
  • マタイ23:23とルカ11:42に書かれている、「それもなおざりにはできないが、これは行わねばならない」という文節は、律法に従って地産物による什一をエルサレムの神殿に捧げなければいけないと同時に、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実をないがしろにしてはいけない、と言っているのである。勿論イエスは、律法の下に生きていた当時の律法学者やパリサイ人たちに対して語っていたのであって、そのまま神の恵みによって救われたキリスト者に適用することはできない。