an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

嵐の中の休息

マルコ6:30-52

 伝道旅行から帰ってきた使徒たちに主イエスは、「さあ、あなただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた(31節)。しかし実際には、五千人を優に超える群衆ために、主イエスの奇蹟によって備えられた夕食を配る、大変な奉仕にをすることになり、休息をとるどころではなかった。弟子たちが群衆を見て「みんなを解散させてください」(36節)とイエスに提案したのは、ただ単に時刻が遅くなってしまっていたからだけではなく、「疲れ切っていて早く休みたかった」と解釈するは意地悪だろうか。

 しかもその直後、イエスは疲れ切った弟子たちを「強いて」船に乗り込ませ、向こう岸へ行くように命令された。そしてご自分はひとりで祈るために山の方へ退かれた。弟子たちの内の数名は、漁師の仕事をしていたので、ガリラヤ湖を自分達の庭のように知っていただろう。おそらく、船を漕ぐのを交代しながら、やっと少しは休めると安心していたのではないだろうか。しかし実際は夜になって嵐に巻き込まれてしまい、夜中の三時になってもまだ湖の真ん中で、向かい風によって漕ぎあがいていた。漁師出身でない弟子たちなど、おそらく激しい波に船酔いしてしまい、疲労困憊していたのではないだろうか。

 そんな弟子たちを主イエスは山の上からご覧になり、何と荒れ狂う波の上を歩いて彼らのところまで行かれた。そして幽霊だと思って怯え上がっていた弟子たちに「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われたのである。イエスが舟に乗りこまれると、風はやんだ(49-51節)。

 これらの一連の状況に対する主イエスの対応を読むと、最初にイエスが弟子たちに言われた「しばらく休みなさい」という言葉が違う意味を持ってくる。全てを予め知っておられたイエス・キリストは、弟子たちが肉体的に疲れていたこと、休息が必要であったこともご存じであった。しかし「強いて」群衆への奉仕や嵐に弄ばれる状況を許された。それは、切迫する物質的な必要の中にあっても、吹き荒れる人生の嵐の中にあっても、魂の真の平安と休息を主イエス・キリスト自身がもたらしてくださることを、弟子たちに教えようとされたのではないだろうか。

 勿論、その教えは一握りの弟子たちだけのものではない。たとい様々な方向から吹き荒れる人生の嵐と高波によって、超えることは絶対にないと信じていた一線さえも越えて、「自分の舟のなかに波が入って来てしまう事態」に置かれたとしても、主イエス・キリストの臨在は、私たちの心の中の「嵐」を鎮めてくださることを約束しているのだ。

 

マタイ11:28-30

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 

わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。