an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

AIに関する一つの想定

 もし現在のペースで世界が進んでいくならば、それ程遠くない将来、膨大なデータを蓄積したAI(人工知能)に「悔い改めて、イエス・キリストを信じるってどういう意味?」とか「第一ペテロ4:6の正しい解釈は?」と質問すれば、過去の色々な解釈の例を挙げてその中から「最適な答え」を選び出してくれる時が来るのだろう。

 勿論、質問者の個人的データも全て把握しているAIは、無数の解釈の中からその質問者の受容範囲に絞って回答することができるだろう。感情に左右され、偏見をもち、知識に偏りがあり、記憶能力にも統合能力にも多くの欠陥を抱える生身の人間の回答よりも、より正確で安定しており、過去の神学者、牧師、教師などの教えに対して「バランスとれた正統的回答」なのかもしれない。

 また一つのテーマに関して議論になった時、どこかの著名な神学者の権威を引き合いに出す代わりに、「ほら、AIはこう言っていますよ」と答える時代がくるのかもしれない。信仰者の知識は今よりも独立的・自己充足的になるだろう。スマホ、いやAIにつながっているワイヤレス・イヤホンなどで必要な時に「最適な答え」を常にもつことができるだろう。

 しかしそのあり方は、善悪を知る木の実を食べたアダムとエバのあり方と本質的に同じではないかと思うのは私だけだろうか。

 15年前、礼拝の聖書朗読にタブレットやスマホを使う人など誰もいなかった。今では、説教者でさえ、講壇にタブレットを持って上がり、画面を指で動かしながら説教する時代になった。そのタブレットの中には、インターネットからダウンロードされた「お気に入り」の説教や聖書研究が保存されており、必要な時に「使い回せる」ようになっている。

 今回、近い将来の極端な要素を想定して書いたが、生ける神が求めている信仰者のあり方、つまり聖霊の導きと知識を得るプロセスとの関係をより深く考える、一つの材料となればと願う。

聖書言語の神聖化

 ヘブライ語やギリシャ語を「聖域」に置く人々は、普段の祈りにおいて古代ヘブライ語やコイネーで祈っているのだろうか。自論に対して一貫性をもって生きるためには、必然的にそのような選択をする他ないだろう。

 そしてそのような彼らの祈りに対して、霊なる神は同じ古代ヘブライ語やコイネーで答えているのだろう。英語や日本語、イタリア語では祈りがうまく通じないから、聖書言語を使いなさい、と。人間が「聖書言語の神聖化」を受け入れる時、このような不条理な話が生じるのである。

 人間にご自身の霊と共に言葉を与えた主なる神は、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」と命じた神であり、その福音を信じた者がどう祈ればいいかわからない時、「言葉にあらわせない切なるうめきをもって執り成して下さる」聖霊を遣わしてくださった神である。

 そしてその主なる神は、世界中の小さな子供たちのたどたどしい祈りにも、読み書きを学ぶ機会なく年を重ねてしまった人々の祈りにも、悲しみと試練の中で声なき叫びをあげる人々にも、御子の尊き名によって答えてくださる神である。

ヨハネ16:13における真理の聖霊の約束に関する検証(4)

ヨハネ16:12-15

12 わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。

13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。

14 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。

15 父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。

 御子がこの言葉を弟子たちに語っていた時点で、御子は「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」と言っている以上、13節の「あらゆる真理」が「御子が地上における公生涯において語り伝えた教えの全て」を指しているのではないことは明らかである。単純に言えば、御子は弟子たちにもっと多くのことを教えたかったが、弟子たちの弱さのゆえにそれができなかったからである。

 それならば「あらゆる真理」とは何を指しているのだろうか。それは「御子自身」であり、「父なる神の御言」(この場合、文脈的には「旧約聖書の啓示の全て」のことだろうし、霊的適用するならば、より総括的な意味の「御子が御父から受けた言の全て」だろう。しかしこの場合も、御子は神の言ロゴスであるゆえに、ご自身のことを間接的に示しているとも言える)のことである。

ヨハネ14:6

6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。

ヨハネ17:17

真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります

ヨハネ1:1-2

1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 

2 この言は初めに神と共にあった。

 この見解は御子自身の他の言葉からも確認できる。

ヨハネ15:26

わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう

ヨハネ5:39

あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。 

 さらに「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。」という御子の約束を分析してみると興味深い要素が示される。

 「(御霊が)来る」と和訳されている動詞【ἔλθῃ  elthē】は、「アオリスト・接続法・能動相」であるので、「御霊が来る」という動作自体が重点が置かれ、「いつ」という時称のニュアンスは薄い。

 対照的に「導く」【ὁδηγήσει】、「語る」【λαλήσει】、「聞く」【ἀκούσει】、「知らせる」【ἀναγγελεῖ】の動詞は、いずれも「未来・直説法・能動相」であるので、「御霊が来た、それ以降の未来の動作」を示している。そしてその未来に特に制限がない以上、御霊の動作は継続的に行われることを示しており、「使徒たちが新約聖書の各書を書き終わるまでの期間」とか「使徒たちが御子の公生涯において教えた全ての教えを宣べ伝えるまでの期間」と限定する文法的根拠は、この節には存在しない。

 また「その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」と言って、「聞くところを語る」ことと「来るべき事を知らせる」ことを別に並記している点は興味深い。実際、使徒ヨハネが「来るべき事」の強烈な啓示を受け、「イエス・キリストの黙示」として書き記したのは、「御子が公的生涯の間に語ったことを聖霊の導きによって思い出して書いた」のではなく、老齢となった時(それはヤコブやペテロ、パウロなどの他のほとんどの使徒たちが地上の命を全うした大分後であった)、流刑の島パトモスで啓示を受け、それを書き記したのである。

黙示録1:1

イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。

黙示録1:17-19

17 わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、 

18 また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。

19 そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい。

 この点からも「あらゆる真理」が「御子が地上における公生涯において語り伝えた教えの全て」を指しているのではないことは明らかである。

自分から語るのではなく、その聞くところ語り

新年明けましておめでとうございます。

ヨハネ16:12-15

12 わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。

13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。

14 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。

15 父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。

「それ(真理の御霊)は自分から語るのではなく、その聞くところ語り…」

「御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせる…」

 御子イエスを信じる全ての者のうちに宿ることが約束されている真理の御霊が、自分から語ることができるにもかかわらず(御霊は三位一体の神の第三位格である)、「御子から聞き、その聞いたことを語る」という態度をもっているのは、非常に重要な啓示である。

 三位一体の神のうちの御子と御霊の関係に、時間の概念や知識の不足を適用することはできないだろうが、ここには聖霊の「自分では動かず、御子の啓示を待つ姿勢」が暗示されている。聖霊に満たされ、導かれている人々の特徴の一つとして「静かな畏敬の念」と「謙虚さ」が伴うのは、彼らの心に宿る聖霊がもつこの姿勢から派生するものである。

 シリアのアンテオケ教会における聖霊の働きを分析すると、さらに意味深い。

使徒13:1-3

1 さて、アンテオケにある教会には、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、およびサウロなどの預言者や教師がいた。

2 一同が主に礼拝をささげ、断食をしていると、聖霊が「さあ、バルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、彼らに授けておいた仕事に当らせなさい」と告げた。 

3 そこで一同は、断食と祈とをして、手をふたりの上においた後、出発させた。

使徒14:26

そこから舟でアンテオケに帰った。彼らが今なし終った働きのために、神の祝福を受けて送り出されたのは、このアンテオケからであった。

 バルナバとサウロ(使徒パウロ)の心を満たし、彼らを導いていた聖霊は、彼らを通して「教会の皆さん。聖霊が今私たちに語りかけ、私たちを海外宣教のために聖別してくださいました」と語ることを選ばなかった。

 むしろ教会に集まっていた一同の中から、聖書には名の記されていない信仰者の口を通して、教会全体に「さあ、バルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、彼らに授けておいた仕事に当らせなさい」と語りかけた。

 さらにその預言を聞いた後、「断食と祈とをして」自分たちが聞いた言葉が神から来たものかどうかを確認したうえで、「手をふたりの上に置き」つまり教会の複数、もしくは全員の人々が承認と祝福のしるしとして二人の上に手を置き、神の祝福を祈ってから二人を送り出したのである。

 新しい一年の始まりにあって、私たちのうちに宿る聖霊の「自分から語るのではなく、その聞くところ語り」というあり方の霊的本質をより意識し、祈りの中で畏敬の念をもって「御声を待つ心」を大事にしたいと思っている。

 

使徒ペテロの人生を導き支えた聖霊の働き

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Ⅰペテロ1:1-2

1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち、 

2 すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。 

Ⅰペテロ5:12-14

12 わたしは、忠実な兄弟として信頼しているシルワノの手によって、この短い手紙をあなたがたにおくり、勧めをし、また、これが神のまことの恵みであることをあかしした。この恵みのうちに、かたく立っていなさい。

13 あなたがたと共に選ばれてバビロンにある教会、ならびに、わたしの子マルコから、あなたがたによろしく。 

14 愛の接吻をもって互にあいさつをかわしなさい。キリストにあるあなたがた一同に、平安があるように。 

 『ペテロの第一の手紙』は、ガリラヤ湖畔の村ベツサイダの漁師であったシモン(マタイ4:18-20)が、御子イエスに十二使徒の一人として選ばれ、約三年半に及ぶ宣教活動に同行し、御子の十字架の死と復活ののち、ペンテコステの祭の日に聖霊に満たしを受けて福音宣教を開始してから約三十年後の西暦64年頃に、シルワノの助けを借りて書き記されたものだと言われている。

 三十年という月日を長いとみるか短いとみるかは別としても、ペテロは西暦67年か68年頃には殉教したと言われているから、福音の使徒としての人生の晩年にこの手紙を書いたことがわかる。

 これは非常に興味深い点である。つまり使徒ペテロはペンテコステにおいて聖霊の満たしを受けた直後に、天からインスピレーションを受けて御子の奥義を一気に書き記したのではなく、また伝道者ピリポの働きによって救われたサマリヤの人々が聖霊の満たしを受けるようにペテロとヨハネがすぐ遣わされたように、使徒パウロの宣教の働きによって小アジアの人々が救われた直後に、その地方の教会にこの手紙を書いたわけではなかった。御霊自身が定めた時期と状況で、使徒ペテロに手紙を書き送ることを命じ、彼とシルワノ(この手紙が通常のコイネーよりもより洗練された文芸体で書かれているのは、シルワノの貢献によるものでないかと言われている)に霊感を与えたのである。

 つまり聖霊と共にペテロが歩んだ約三十年間の様々な経験や蓄積された知識が根となり、幹となり、枝となって、聖霊の霊感によって迫害下にある教会を励ます手紙という実を結んだのである。

 ペンテコステ以降、エルサレムの宗教権威者たちの脅しや侮蔑も気にせず、知恵と力に満ちて大胆に福音を語っていたペテロは、聖霊の不思議な導きによって異邦人のコルネリオの家に福音を語りに行った時初めて、御子の福音の普遍性を実際的に悟ったのだった。

使徒10:28-29;34-36

28 彼らにこう言った。「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間にはいったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。

29 それで、お迎えを受けたとき、ためらわずに来たのです。そこで、お尋ねしますが、あなたがたは、いったいどういうわけで私をお招きになったのですか。」 

34  そこでペテロは、口を開いてこういった。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、 

35 どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。 

36 神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。

 他の使徒たちよりも先に「神はユダヤ人も異邦人も偏り見ない」ことを体験したペテロは、エルサレム会議でこれまた大胆に律法主義的ユダヤ人信仰者を戒めていたにもかかわらず、その後しばらくしてシリアのアンテオケ教会によって、自ら糾弾した偽善の罠にかかりそうになった。

使徒15:7-11

7 激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。

8 そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、 

9 私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。

10 それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。

11 私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」 

ガラテヤ2:11-14

11 ところが、ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。 

12 というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。 

13 そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。 

14 彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパに言った、「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか」。 

 もし使徒パウロが「福音の真理に従って真っすぐ歩いていなかった」使徒ペテロたちの偽善を見ながら、面と向かって叱責しなかったとしたら、エルサレム会議において激しい議論の末に教会の間で認識された「ユダヤ人も異邦人もただ恵みによって救われる」という福音の核心が脅かされていたことであろう。

 実際、「異邦人信仰者も、モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、救われない」という「にせ兄弟たち」の教え(使徒15:1)は、「パリサイ派から信仰にはいってきた人たち」にして「救いを受けた異邦人にも割礼を施し、またモーセの律法を守らせるべきである」という主張となり教会の中に論争を生み(使徒15:5)、アンテオケ教会においては「異邦人信徒たちとの交わりから身を引き、一緒に食事しない」という、より悪巧な行動に顕れ、教会を福音の真理から逸そうという誘惑となっていた。 

ガラテヤ2:4-5

4 それは、忍び込んできたにせ兄弟らがいたので――彼らが忍び込んできたのは、キリスト・イエスにあって持っているわたしたちの自由をねらって、わたしたちを奴隷にするためであった。 

5 わたしたちは、福音の真理があなたがたのもとに常にとどまっているように、瞬時も彼らの強要に屈服しなかった。 

 つまり使徒ペテロは、主イエスの恵みによる救いの福音の真理を十分に知りながらも、それまで歩んでいた福音の真理の道から逸れていってしまう危険の中を歩んでいたのである。しかし使徒ペテロは、使徒パウロを通して働かれた聖霊による矯正を遜って受け入れた。それゆえ、彼は最後まで福音の真理に根差し、その真理に仕えて行くことができたのである。

 しかし使徒ペテロや使徒パウロ、そして初代教会がその都度、対面し、戦っていた対象は、「にせ兄弟」や「パリサイ派から信仰に入ってきた人々」、「偽善に引き込まれかけていたペテロやバルナバ」という個人というよりも、またその人々が主張していたり、影響を受けていた教えでだった以上に、それは霊の戦いであった。実際、使徒パウロは信仰者が向き合わなければならない「霊の戦い」について、彼の書簡において言及している。

エペソ6:10-18

10 最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。 

11 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。

12 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。

13 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。

14 すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、 

15 平和の福音の備えを足にはき、 

16 その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。

17 また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。 

18 絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。 

  様々な状況で、様々な形で顕れる悪魔のあらゆる策略に対して、神の武具の全てを使って戦っていたのである。

 私は今回、現在のトルコ領にあたるポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤ地方に散在していた教会に対する、神の深い愛と力強い介入を示され、改めて主なる神のキリストの花嫁である教会に対する愛に感動した。なぜなら、使徒パウロたちによる開拓伝道によって救われた人々は、同じパウロの数々の書簡(ガラテヤ、エペソ、コロサイ、ピレモン、エペソにいたテモテへの手紙)によって正され、励まされていたが、使徒パウロが悪名高いネロ皇帝によってローマで殉教したおそらく後には、今度は使徒ペテロと、使徒パウロの伝道旅行に同行したシルワノ(シラス)とによって書かれた手紙によって励まされていたのである。

 さらに使徒ペテロの殉教の後、聖霊は流刑の島パトモスにいた使徒ヨハネに霊感を与え、小アジアの七つの教会へ手紙を書かせた。

黙示録1:9-11

9 あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。 

10 ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。 

11 その声はこう言った、「あなたが見ていることを書きものにして、それをエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤにある七つの教会に送りなさい」。 

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 このように、使徒ペテロの30年以上の福音宣教者としての人生を導き、支え、守ってきた聖霊は、ひとりの奉仕者の貢献を遙かに超えて継続的に働き、御子キリストの教会を愛し、全ての真理に導き、支えていたことが証しされている。

 そのような聖霊の力を知っていた使徒ペテロが、彼の最後の手紙で書いている励ましの言葉は、聖霊の働きとその目的を考慮して読むと、実に力強く、恵みと確かさに満ちている。

Ⅱペテロ1:3-8

3 いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。

4 また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。 

5 それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、

6 知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、 

7 信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。 

8 これらのものがあなたがたに備わって、いよいよ豊かになるならば、わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について、あなたがたは、怠る者、実を結ばない者となることはないであろう。 

 

「没薬を混ぜた葡萄酒」を飲まなかった御子イエス

マタイ27:34

彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。

 御子イエスが十字架に架けられる前に差し出された「苦味を混ぜた葡萄酒」の「苦味」と和訳されている原語 【χολή cholē】は「胆汁」であるが、『マルコによる福音書』の並行節によると、【σμυρνίζω smurnizō】「没薬」とある。

マルコ15:23
そしてイエスに、没薬をまぜたぶどう酒をさし出したが、お受けにならなかった。

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没薬 もつやく myrrh

ミルラともいう。カンラン科Burseraceaeコミフォラ属Commiphoraの木本植物からとれるゴム樹脂を集めたもの。古代エジプトで薫香料、ミイラ製造時の防腐剤に用いられ、聖書にも貴重な品物として記述されている。この植物はアフリカ北東部、アラビア半島、インドの岩石の多い乾燥地帯に分布し、約100種を含む。高さ3~10メートル、樹皮は灰白色、短い枝はのちに長刺になり、小さな3小葉からなる複葉をもち、雌雄異株。幹の皮部と髄の離生分泌腔(こう)に黄白色の油性ゴム樹脂を形成し、風害などにより皮部に損傷を生ずると外部に滲出(しんしゅつ)し、乾燥して黄褐色ないし赤褐色の堅い塊となる。精油3~10%、樹脂25~45%、ゴム質50~60%、水分5%、その他3~4%からなり、収斂(しゅうれん)、鎮痛作用があるので、腫(は)れ物、外傷、打撲傷、痔漏(じろう)、筋肉痛の治療に外用し、歯齦(しぎん)炎、咽頭(いんとう)炎の含嗽(がんそう)料とし、歯みがき粉にも加えることがある。

(日本大百科全書の解説)

 当時のユダヤ人の習慣として、死刑囚に対する慈悲行為として、その身体的・精神的苦痛を和らげるために、一種の麻酔剤としてこのような「苦味を混ぜた葡萄酒」「没薬を混ぜた葡萄酒」を与えていたようである。

 その根拠として以下の箴言を引用している見解もある。

箴言31:6

強い酒は滅びようとしている者に与え、ぶどう酒は心の痛んでいる者に与えよ。

 それではなぜ御子イエスは、その慈悲心の現われであった「苦味を混ぜた葡萄酒」を拒否したのだろうか。それは「苦味を混ぜた葡萄酒」を御子に与えようとした「彼ら」が、ローマ総督の兵士たち、つまりユダヤ人ではない異邦人であったからでも、またその兵士たちが御子のことを愚弄したり、暴力を振るっていたからではなかった。

マタイ27:27-31

27 それから総督の兵士たちは、イエスを官邸に連れて行って、全部隊をイエスのまわりに集めた。

28 そしてその上着をぬがせて、赤い外套を着せ、

29 また、いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ、右の手には葦の棒を持たせ、それからその前にひざまずき、嘲弄して、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。

30 また、イエスにつばきをかけ、葦の棒を取りあげてその頭をたたいた。

31 こうしてイエスを嘲弄したあげく、外套をはぎ取って元の上着を着せ、それから十字架につけるために引き出した。

 御子が「それをなめただけで、飲もうとはされなかった」「お受けにならなかった」のは、自らに与えられていた「律法の呪いの死」の苦しみを完全の「味わう」ためだったからだろう。

へブル2:9

ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。

ヨハネ18:11

すると、イエスはペテロに言われた、「剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか」。

 その杯は、罪に対する神の怒りの杯であり、本来、神に逆らう罪びとが飲むべきものを、罪のない御子が身代わりとなって飲み干した「死」であり、「神の裁き」であった。

 『黙示録』には、御子による恵みの福音を拒否した人々に対して大患難期に下る神の裁きについて、「神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒」と表現されている。

黙示録14:10

神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。

 人間は普通、苦痛を恐れ、なるべくそれを避けようとする。また他人が苦しんでいるのを直視することがないよう、様々な理由付けを用意する。しかし御子は私たちが恐れ、思わず逃げてしまうような、そんな苦痛や苦悩の中に入っていくことを恐れないばかりか、それを自ら背負ってくださる方である。

 いや、むしろ御子が経験した「混ぜ物なしの葡萄酒」、つまり神の裁きによる苦痛や苦悩は、人間が体験する以上のものであった。だからこそ、御子は人がたとえどのような苦しみの中にいても、救いの恵みの言葉を与えることができるのである。ゴルゴタの丘の上で、ご自分と同じように十字架に架けられていた強盗に対して語ったように。

ルカ23:39-43(新改訳)

39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。 

40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。 

41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」 

42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」 

43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」 

神の言を売物にせず

Ⅱコリント2:17

(口語訳)

しかし、わたしたちは、多くの人のように神の言を売物にせず、真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語るのである。 

 

(新改訳)

私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。

 新改訳は、「売り物にする」と和訳されている【καπηλεύω kapēleuō】に「(飲食物・薬など)に混ぜる、品質を落とす」というニュアンスもあることから、「混ぜ物をして売る」と訳出しているのだろう。

 そもそも「神のことばを売り物にする」とは、ただ単に「神のことばを伝えることによって、結果として何かしらの対価を得る」ということだけを示しているのではないだろう。その対価は経済的であったり、倫理的・精神的、つまり第三者からの評価・称賛だったりするかもしれないが、「売り物にする」の本当の問題は、それが目的となってしまうことにある。

 つまり「御子イエス・キリストを啓示する」という御言葉の本来の目的が、「何かを得るために御言葉を伝える」というように挿げ替えられてしまうことが問題なのである。

 実例で言うと、「繁栄の福音」を主張する教会では、経済的対価を得るために什一献金や「捧げること」をテーマとして選び、強調したりする。確かに新約聖書は自由献金については語っているが、それを什一献金制度という根拠のない教えに変質させ、繰り返し語るのである。福音の啓示全体から見れば、献金のテーマはほんのわずかな部分を占めているだけなのに、間違って設定された目的を達成するために、繰り返し強調されるわけである。

 しかし経済的対価を得る目的よりも、さらに狡猾で危険なのは、倫理的・精神的対価を得るために聖書の言葉を利用する場合である。第三者からの評価を得るため、その評価を基に社会的認識を得るため、など自分自身の目的のために神の御言葉を利用する。そして目的が異なるから、そこには必然的に「混ぜ物をする」「品質を落とす」作用が働くのである。

 例えば、自分が行っている宗教的・倫理的選択を誇る目的で、それらに関連する御言葉を強調し、本来聖書の中で与えられている以上の比重を与えて第三者に伝えたりする。聖書には「肉を食わず、酒を飲まず、そのほか兄弟をつまずかせないのは、良いことである。」(ローマ14:21)とあるが、自分が肉を食べず、酒を飲まない選択をしていることを誇るためにこの箇所を繰り返し伝えるならば、それは自分の目的のために神のことばを売る行為と見做されるだろう。

 伝道や教えること自体さえ、自己満足の目的追求のツールとしてしまうほど、人間の自己義認の欲求は根深く、狡猾だと思う。

 御子の十字架の死を通して、これらの目的のすげ替えに聖霊の光を当ててもらうしか、解放の道はない。