an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

AIに関する一つの想定

 もし現在のペースで世界が進んでいくならば、それ程遠くない将来、膨大なデータを蓄積したAI(人工知能)に「悔い改めて、イエス・キリストを信じるってどういう意味?」とか「第一ペテロ4:6の正しい解釈は?」と質問すれば、過去の色々な解釈の例を挙げてその中から「最適な答え」を選び出してくれる時が来るのだろう。

 勿論、質問者の個人的データも全て把握しているAIは、無数の解釈の中からその質問者の受容範囲に絞って回答することができるだろう。感情に左右され、偏見をもち、知識に偏りがあり、記憶能力にも統合能力にも多くの欠陥を抱える生身の人間の回答よりも、より正確で安定しており、過去の神学者、牧師、教師などの教えに対して「バランスとれた正統的回答」なのかもしれない。

 また一つのテーマに関して議論になった時、どこかの著名な神学者の権威を引き合いに出す代わりに、「ほら、AIはこう言っていますよ」と答える時代がくるのかもしれない。信仰者の知識は今よりも独立的・自己充足的になるだろう。スマホ、いやAIにつながっているワイヤレス・イヤホンなどで必要な時に「最適な答え」を常にもつことができるだろう。

 しかしそのあり方は、善悪を知る木の実を食べたアダムとエバのあり方と本質的に同じではないかと思うのは私だけだろうか。

 15年前、礼拝の聖書朗読にタブレットやスマホを使う人など誰もいなかった。今では、説教者でさえ、講壇にタブレットを持って上がり、画面を指で動かしながら説教する時代になった。そのタブレットの中には、インターネットからダウンロードされた「お気に入り」の説教や聖書研究が保存されており、必要な時に「使い回せる」ようになっている。

 今回、近い将来の極端な要素を想定して書いたが、生ける神が求めている信仰者のあり方、つまり聖霊の導きと知識を得るプロセスとの関係をより深く考える、一つの材料となればと願う。