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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「あなたがたは神々である」に関する検証

ヨハネ10:30-39

30 わたしと父とは一つである」。

31 そこでユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた。

32 するとイエスは彼らに答えられた、「わたしは、父による多くのよいわざを、あなたがたに示した。その中のどのわざのために、わたしを石で打ち殺そうとするのか」。

33 ユダヤ人たちは答えた、「あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としているからである」。

34 イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。

35 神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)

36 父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。

37 もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。

38 しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」。

39 そこで、彼らはまたイエスを捕えようとしたが、イエスは彼らの手をのがれて、去って行かれた。

 ユダヤ人たちは御子イエスの「わたしと父とは一つである」という言葉が何を意味しているか、十分に理解した。実際、「あなたは人間であるのに、自分を神としているからである」と解釈し、そのことが受け入れられず「神に対する冒涜である」と断罪し、石打ちの刑で御子を殺そうとしたほどであった。

 そのユダヤ人たちの訴えに対して、御子は詩篇82篇の一節を引用し、自分の立場を弁明している。

34 イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。

35 神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)

36 父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。

  神の言を託された人々(新改訳:「神のことばを受けた人々」)、つまり神の律法を託され、民を公平と正義によって裁く務めを任されていた人々が、聖書の中で「神々」と呼ばれているのなら、なおさら父なる神に聖別され、御心を行うために世に遣わされた自分の事を「神の子」と言って、なぜ神を冒涜していることになるのだ、と弁明しているのである。

 ここで御子イエスは詩篇の聖句「わたしは言う、あなたがたは神々である」を引用し、ご自身の神性を立証しているのであって、「あなたは人間であるのに、自分を神としている」と糾弾していた人々に対して「あなたがたも神のことばを託されているのだから、神々なのですよ」と人間の神性を立証しようとしていたのではないのである。

 私がこのように書くのには理由がある。なぜなら、このヨハネ10:35の聖句を根拠に、「キリストにある者は全く新しいタイプの存在、つまり神々である」と主張する者がいるからである。

 御子が引用した詩篇そのものを検証することでも、そのような主張がナンセンスであることがわかる。

詩篇82

アサフの歌

1 神は神の会議のなかに立たれる。神は神々のなかで、さばきを行われる。

2 「あなたがたはいつまで不正なさばきをなし、悪しき者に好意を示すのか。〔セラ

3 弱い者と、みなしごとを公平に扱い、苦しむ者と乏しい者の権利を擁護せよ。

4 弱い者と貧しい者を救い、彼らを悪しき者の手から助け出せ」。

5 彼らは知ることなく、悟ることもなくて、暗き中をさまよう。地のもろもろの基はゆり動いた。

6 わたしは言う、「あなたがたは神だ、あなたがたは皆いと高き者の子だ。

7 しかし、あなたがたは人のように死に、もろもろの君のひとりのように倒れるであろう」。

8 神よ、起きて、地をさばいてください。すべての国民はあなたのものだからです。  

  まず第一に、1節の「神」と「神々」は同じ原語【אֱלֹהִים 'ĕlôhı̂ym エロヒム】(複数形)であるが、「神」の場合、動詞「立たれる」「さばきを行う」が単数形であるので、神学的に三位一体の神を啓示しているのに対して、「神々」の場合は2節や6節においても動詞や代名詞がそのまま複数形であるので、三位一体の神と同列に解釈することは決してできないのである。

 さらに文脈を読めば、ここで「神々」と呼ばれ、御子が「神の言を託された人々」と説明しているイスラエルの民の裁き人たちに対して、神はその不正を糾弾し、託された御言葉の義に従って行動するよう、命じているのである。

「あなたがたはいつまで不正なさばきをなし、悪しき者に好意を示すのか。〔セラ

弱い者と、みなしごとを公平に扱い、苦しむ者と乏しい者の権利を擁護せよ。

弱い者と貧しい者を救い、彼らを悪しき者の手から助け出せ」。

 そしてその不正の犯す「神々」の結末を宣告している。

彼らは知ることなく、悟ることもなくて、暗き中をさまよう。

わたしは言う、「あなたがたは神だ、あなたがたは皆いと高き者の子だ。

しかし、あなたがたは人のように死に、もろもろの君のひとりのように倒れるであろう」。

 このように主なる神から聖なる啓示の言葉を託され、神の民をその御言葉に従って治めるように権威と責任を与えられていた人々が、不正を行い、公義を曲げ、その当然の帰結として暗闇を彷徨い、やがて死の滅びが待ち受けていることを宣告されていた。ここで暗示されている神のアイロニーのニュアンスを見逃すことはできない。

 だからこそ詩篇記者アサフは、「神々」ではなく、唯一のまことの神に公正な裁きを祈り求めているのである。

神よ、起きて、地をさばいてください。すべての国民はあなたのものだからです。  

 このように詩篇をそのまま読んでも、決して「新しく生まれた信仰者はエロヒムである」という解釈を引き出せるような文脈は存在しないのである。

 確かに神の無限の愛によって、御子を信じた私たちは「すでに神の子」とされ、「今や神の子」である。しかし地上に生きる間は「わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない」(新改訳:「後の状態はまだ明らかにされていません」)。この地上における信仰の戦いを全うし、神の御姿を見るときはじめて、私たちは彼に似た者となるのである。

Ⅰヨハネ3:1-3

1 わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。

2 愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。

3 彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。 

 神の御言葉に逆らっても「神のようになれる」「あなたがたはエロヒムだ」と説く「エデンの蛇の言葉」に誰も騙されてはならない。

Ⅰヨハネ3:7-10(新改訳)

7 子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。

8 罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。

9 だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。

10 そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。

「永遠の命にあずかるように定められていた者」に関する検証

 使徒13:38-49

38 だから、兄弟たちよ、この事を承知しておくがよい。すなわち、このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。そして、モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても、 

39 信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである。 

40 だから預言者たちの書にかいてある次のようなことが、あなたがたの身に起らないように気をつけなさい。 

41 『見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。わたしは、あなたがたの時代に一つの事をする。それは、人がどんなに説明して聞かせても、あなたがたのとうてい信じないような事なのである』」。 

42 ふたりが会堂を出る時、人々は次の安息日にも、これと同じ話をしてくれるようにと、しきりに願った。 

43 そして集会が終ってからも、大ぜいのユダヤ人や信心深い改宗者たちが、パウロとバルナバとについてきたので、ふたりは、彼らが引きつづき神のめぐみにとどまっているようにと、説きすすめた。 

44 次の安息日には、ほとんど全市をあげて、神の言を聞きに集まってきた。 

45 するとユダヤ人たちは、その群衆を見てねたましく思い、パウロの語ることに口ぎたなく反対した。 

46 パウロとバルナバとは大胆に語った、「神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ。 

47 主はわたしたちに、こう命じておられる、『わたしは、あなたを立てて異邦人の光とした。あなたが地の果までも救をもたらすためである』」。 

48 異邦人たちはこれを聞いてよろこび、主の御言をほめたたえてやまなかった。そして、永遠の命にあずかるように定められていた者は、みな信じた。 

49 こうして、主の御言はこの地方全体にひろまって行った。 

  48節の「永遠の命にあずかるように定められていた者」(新改訳:「永遠のいのちに定められていた人たち」)という箇所は、よくカルヴァン主義の予定説、つまり「全知の神は、ご自身の絶対的な主権によって誰が魂の救いを受け、誰が滅びに至るかあらかじめ決めておられる」という説の根拠として引用される。

 今まで何世紀にも渡って議論されてきた内容なので、私がここで議論を蒸し返すまでもないだろう。そもそも時間や空間に制限されない永遠の神、全知全能の神が、その絶対的主権によって個人の救いや滅びを予定していたとしても、その同じ神が「全ての人が救われるのを望み」、その動機のゆえに「全ての人のために御子のいのちを犠牲にした」ならば、そして人間には誰が救われるか、救われないか、知ることができず、地上の生の最後の瞬間まで救いの可能性が与えられているとするならば、宣教命令を蔑ろにしてまで延々と議論をする意味が果たしてあるのか、私には甚だ疑問である。

 つまり自分の目の前にいる一人の人が、「救いのために定められているか、それとも滅びるために定められているか」、誰も知ることが許されていないと主張するならば、「神はその魂を救いたいと願っている」という前提的真理に意識を集中させるべきではないのだろうか。

ローマ5:18

このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。

Ⅱコリント5:14-15

14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。

15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。

Ⅰテモテ2:4

神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。

Ⅰテモテ4:10

わたしたちは、このために労し苦しんでいる。それは、すべての人の救主、特に信じる者たちの救主なる生ける神に、望みを置いてきたからである。

テトス2:11

すべての人を救う神の恵みが現れた。

Ⅱペテロ3:9

ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。 

 この「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」という大前提に基づいて冒頭の箇所の読み返すと、より正確な解釈が見えてくると思う。

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 第一次伝道旅行においてパウロとバルナバは、ピシデヤのアンテオケに行き、安息日の会堂(シナゴーグ)において、そこにいた会衆(ユダヤ人や信心深い改宗者たち 16節、43節参照)に対して、「兄弟たちよ」と呼びかけ、「このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。」と宣言した。その福音は、「信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである。」というメッセージであった。

 使徒たちは、アンテオケの会堂の何人かを選んで救いの福音を語らなかった。その場にいた聴衆の全員に対して呼びかけ、皆に罪の赦しの福音を宣べ伝えたのである。しかしその福音は「万人救済の福音」ではなく、「信じる者がすべて救われる」という「信仰による救いの福音」であった。

 これはパウロやバルナバだけでなく、聖霊に満たされた聖徒らが宣べ伝えていた「神の福音」である。

ヨハネ3:16

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 

 さらに、見逃してはならない点は、パウロとバルナバが信じる者全てに与えられる救いを語った同じ聴衆に対して、同時にその神の福音を侮ることに対する警告を予めしていることである。

だから預言者たちの書にかいてある次のようなことが、あなたがたの身に起らないように気をつけなさい

『見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。わたしは、あなたがたの時代に一つの事をする。それは、人がどんなに説明して聞かせても、あなたがたのとうてい信じないような事なのである』

 もし使徒らが予定論を前提に語っていたとすれば、この警告は意味がなかったはずである。もし滅びることがあらかじめ決定されているのなら、何をどう気をつければそれが起きないというのだろうか。

 また集会が終わった後にも使徒たちから話を聞こうと従っていた人々に対して、「引きつづき神のめぐみにとどまっているようにと、説きすすめた。 」とあるが、救われることが予定されているのならば、神の恵みに留まっているように勧告する意味はないだろう。

 しかし次の週の安息日に、使徒らは同じ会堂に集まったユダヤ人たちに対して、以下のような厳しい宣告をしているのである。

神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまった

 誰が誰をどのように「永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまった」のだろうか。それはユダヤ人たちが自分自身を、福音を退けることによって、である。ここでは明らかに、予定論にはよらず、福音を受け入れることを拒否したその選択が、全ての人に与えられていた可能性から自ら除外する根拠と見なされているのである。

 それゆえ、「永遠の命にあずかるように定められていた者」における「定められていたこと」とは、「神の福音を信じる者はみな、誰でも救われ、永遠の命を得る」という神の契約の条件であり、実際に異邦人がその条件に従って救われていたことを証ししているのだと思う。

異邦人たちはこれを聞いてよろこび、主の御言をほめたたえてやまなかった。そして、永遠の命にあずかるように定められていた者は、みな信じた。

フリーソフトInterliner Scripture Analyzer について

 以前から Interliner Scripture Analyzer (ISA3 basic)というフリープログラムを他の聖書研究のツールと併用していたのだが、最近そのプログラムの中で使われている聖書の翻訳バージョン(Concordant Literal Version 2.1 CLV)が独特の傾向をもつことに気が付き、また他のバージョンを追加することができない、つまりCLVしか使えないことを発見し、調べてみた所、このバージョンの翻訳を手掛けたAdolph Ernest Knochの神学的立場が、聖書的見解とは異なることを知った。例えば、地獄の教理の否定だとか、御子の神性と父なる神の神性が同等であることを否定しているというのである。

 これは問題である。というのは、いくら「Literal 逐語」と謳っても、一つの単語には複数の意味があることが常であり、そのニュアンスの違いが文脈の中で大きな影響を及ぼすとき、「翻訳者の見解」は非常に重要な要素となるからである。つまり複数の選択肢の中から、「これが逐語、つまり原語に忠実な意味である」と選ぶのに、翻訳者の神学的見解が決定的要素となり得るのである。

 キリストの神性の教義は、聖書の啓示の中でも核とも言える教義であるから、翻訳作業の過程における言葉の選択に必ず大きな影響をもたらすはずであると思い、個人的にキリストの神性を啓示する聖句に関して数か所、CLVの簡単なチェックをしてみたが、現段階で特に問題を感じる点は見つけられなかった。むしろ、ヨハネ1:18においては「The only-begotten God」(ひとり子なる神)と訳していたりする。

God no one has ever seen. The only-begotten God, Who is in the bosom of the Father, He unfolds Him.

(引用者注:グレーのフォントはオリジナルからそのまま適用)

 またヨハネ10:18において、CLVは以下の様に訳している。

No one is taking it away from Me, but I am laying it down of Myself. I have the right to lay it down, and I have the right to get it again. This precept I got from My Father.

 【ἐξουσία exousia】の訳語に「right」(日本語で「権利」というニュアンスだろう)を選択しているが、この原語は 「force, capacity, competency, freedom, privilege, elegated influence, authority, jurisdiction, liberty, power, right, strength」と様々な意味を持っている。「right 権利」という言葉を選んだのは、おそらくその言葉に「付与」というニュアンスが含まれているから、「これはわたしの父から授かった定めである」という箇所によるのではないかと推測する。しかし「だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。」という言葉に御子の自律性が啓示されているから、「power 力」とか「authority 権能」と訳する根拠も文脈上にある。

 参考までに、英訳のいくつかのバージョンと、日本語訳を引用する。

King James Version

No man taketh it from me, but I lay it down of myself. I have power to lay it down, and I have power to take it again. This commandment have I received of my Father.

American Standard Version

No one taketh it away from me, but I lay it down of myself. I have power to lay it down, and I have power to take it again. This commandment received I from my Father.

Bible in Basic English
No one takes it away from me; I give it up of myself. I have power to give it up, and I have power to take it again. These orders I have from my Father.

Darby's English Translation

No one takes it from me, but I lay it down of myself. I have authority to lay it down and I have authority to take it again. I have received this commandment of my Father.

Douay Rheims
No man taketh it away from me: but I lay it down of myself, and I have power to lay it down: and I have power to take it up again. This commandment have I received of my Father.

Noah Webster Bible
No man taketh it from me, but I lay it down of myself. I have power to lay it down, and I have power to take it again. This commandment have I received from my Father.

Weymouth New Testament

No one is taking it away from me, but I myself am laying it down. I am authorized to lay it down, and I am authorized to receive it back again. This is the command I received from my Father.'

World English Bible

No one takes it away from me, but I lay it down by myself. I have power to lay it down, and I have power to take it again. I received this commandment from my Father.'

Young's Literal Translation
no one doth take it from me, but I lay it down of myself; authority I have to lay it down, and authority I have again to take it; this command I received from my Father.'

口語訳

だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。

新改訳

だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

新共同訳

だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

文語訳

人これを我より取るにあらず、我みづから捨つるなり。我は之をすつる權あり、復これを得る權あり、我この命令をわが父より受けたり』"

前田訳

何びともわたしからのいのちを奪わない。わたしが自分でそれを捨てる。わたしにはそれを捨てる権威があり、ふたたびそれを受ける権威がある。わたしはこのいいつけを父から受けた」と。

岩波委員会訳

私からそれを奪う者は誰もいない。私が私自身からそれを棄てるのである。私にはそれを棄てる力があり、それを再び受ける力がある。この命令を私は自分の父から受けたのである」。

 今後もさらにCLVに関して調べてみるつもりだが、もし読者の方でこのフリーソフトを利用している方がいるならば、是非、上述の翻訳者の神学的見解について念頭に置いて、絶えず他のバージョンと比較しながら利用するアプローチが賢明ではないかと思う。

 

安息日に関する考察(15)神の安息

へブル4:1-11

1 それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。

2 というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。

3 ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、「わたしが怒って、彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、誓ったように」と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。

4 すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、

5 またここで、「彼らをわたしの安息に、はいらせることはしない」と言われている。

6 そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、

7 神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。

8 もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。

9 こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。

10 なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。

11 したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。 

 9節「こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。」を読んで、「だから新約の時代でも安息日の休みの戒めは、有効である」という解釈をする立場がある。確かに日本語訳聖書において、この一節だけを文脈から切り離して読めば、そのように解釈してしまうのも無理はない思う。上に引用した口語訳以外の和訳聖書でも、やはり日本語独特の問題で似たような状況ではないかと思う。

  • (文語訳)然れば神の民の爲になほ安息は遺れり。
  • (新改訳)したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。
  • (新共同訳)それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。
  • (岩波委員会訳)やはり、神の民には安息日の祝いが残されているのである。
  • (塚本訳)それだから、神の民[キリストを信ずる者]には安息が残っているのである。

 この節で「安息日」もしくは「安息」と訳されている原語【σαββατισμός sabbatismos】は、新約聖書の中でもこの節でしか使われていない特殊な単語で、ギリシャ語旧約聖書LXX訳においても使われていない。

 定冠詞がついていないので、英語訳では不定冠詞を付けて「a rest」「a sabbath rest」と訳されている。つまりこの文脈でこの単語が意味する「sabbatismos」は、モーセの律法によって民に与えられた週に一回の安息日ではなく、神の民がいまだに経験していない「ある一つの休息」というニュアンスである。

 実際、前後にある聖句がそのニュアンスを説明している。まず8節には「もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。」とあり、ヨシュアに導かれ約束の地に入ったイスラエルの民が、律法によって定められていた週一回の安息を守っていた、その安息について語っているのではないことがわかる。

 さらに1節に「神の安息にはいるべき約束が、まだ存続している」、4節には「七日目のことについて、『神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた』」、5節の「わたしの安息」について6節で「その安息にはいる機会が、人々になお残されている」、そして10節には「神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだ」とあるので、9節にある信仰者の約束されている「一つの休息」とは、「神の安息」つまり神が創造のわざを完全に終えて七日目にすべてのわざから休まれたように、最終的に贖いのわざを完成させて、永遠の御国を実現する、その「神の安息」である。

 ちなみに1節や3節、5節、10節で「安息」と和訳されている原語【κατάπαυσις katapausis】は、「滞在、住居」という意味ももつ。

 「神の安息にはいるべき約束が、まだ存続している」「その安息にはいる機会が、人々になお残されている」ということは、まだ神の贖いのわざが完成しておらず、神もわざを終えて休んではいないことを示している。実際、御子がある安息日に「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」(ヨハネ5:17)と言った通りである。

 以下の聖句も、神のわざがまだ継続中であることを示している。

ローマ8:23

それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。

Ⅱコリント4:16

だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。

Ⅱコリント6:2

神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。

エペソ1:14

この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。

へブル3:13

あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。

  この約束された「神の休息」は、新しい天と新しい地において完全に、そして永遠に成就する。そこには、アダムとエバの堕罪の結果として人類に入りこんでいた「労苦」や「苦痛」、「のろい」、そして「神からの断絶という死」は完全に消え去り、神のいのちと平安がすべてとなるのである。「この日がかの日よりも大事である」と確信する信仰者も、「どの日も同じである」と確信する信仰者も、結局、この神の永遠のいのちにある休息を信じ、その実現を慕い求めている。

黙示録21:1-7

1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。

2 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。

3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、

4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

5 すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。

6 そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。

7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

黙示録22:1-5

1 御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、

2 都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。

3 のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、

4 御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。

5 夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。

安息日に関する考察(14)だれにも批評されてはならない

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コロサイ2:16-17

16 だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。

17 これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。 

  以前『幼稚な遊び』という記事でも書いたが、上に引用した聖句の文脈を無視し、「モーセの律法に基づいて、食物と飲み物や、祭や新月や安息日など尊守しているあなたがたは、それを守っていない異邦人に批評されてはならない」と解釈し、恵みによって救われていると告白しながらも、ユダヤ教の祭や安息日を守るように教えている人々がいる。

 しかしこの聖句の文脈を読めば、それは小アジア(現在のトルコ)のコロサイ教会へ手紙を書いた使徒パウロの意図と正反対の主張であることが理解できる。

コロサイ1:27

神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。

KJV

To whom God would make known what [is] the riches of the glory of this mystery among the Gentiles; which is Christ in you, the hope of glory:

 まず使徒は「異邦人の受くべきこの奥義」と書いた直後、「この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり」と書いている。つまりコロサイの信徒たちがユダヤ人ではなく、異邦人であったことを示している。

 また以下の聖句はさらに明確にコロサイの信徒たちが異邦人であったことを示している。

コロサイ2:11-15

11 あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。

12 あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。

13 あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。

14 神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。

15 そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。 

  使徒パウロはここで明確に、「あなたがた」つまりコロサイ教会の信徒たちが、「先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者である」と記述している。つまり「肉に割礼を受けていたユダヤ人」ではなく、「肉に割礼を受けていない異邦人」であるということである。その異邦人であった人々が、信仰によって「手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨て」、救われたのであった。

 モーセの律法は「契約のしるし」として肉の割礼を命じていたが、なぜコロサイのこれらの異邦人たちは「手によらない割礼」だけで神の民となることができたのだろうか。それは、神自身が「わたしたちを責めて不利におとしいれる証書」つまりモーセの律法を、「その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた」かれであった。

 もし使徒パウロが、異邦人であったコロサイ教会の信徒たちに、ユダヤ教からの改宗者の教師たちが教えていたように、「あなたがたも、モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、救われない」とか「異邦人にも割礼を施し、またモーセの律法を守らせるべきである」(使徒15:1;5 参照)と教え、安息日などを守るように教えていたとしたら、「神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた」という言葉や、以下の言葉などは矛盾した主張でしかなかったはずである。

コロサイ2:20-23

20 もしあなたがたが、キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、なおこの世に生きているもののように、

21 「さわるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのか。

22 これらは皆、使えば尽きてしまうもの、人間の規定や教によっているものである。

23 これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない。 

 そしてもしコロサイ教会の信徒が神を知らない異邦人から、モーセの律法に書かれている「食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて」批評を受けていたことに関して、信徒らを弁護しようとしていたのなら、モーセの律法の権威を主張すればよかったはずである。「神の律法にはこうこう書いてあるのだから、その律法を知らない異邦人から批評を受けたとしても、あなたがたは気に留める必要はない」と。しかし実際には、この手紙において使徒パウロは、律法の中からどころか旧約聖書全体からさえも、一文も引用をしていないのである。(こちらのリストで確認可能)

 だから使徒パウロがここで主張しているのは、「神ご自身が御子の死によって律法の規定を塗り消し、取り除き、十字架につけてしまったならば、律法を尊守しなければ救われないと主張する人々から、食物や祭や安息日などの律法の規定に関して、守っていないとか、霊的な本質を理解していない、などと批評されてもそれを真に受けてはならない」と主張しているのである。

 ちなみに「安息日を尊守すること」に「普通の新生経験や信仰生活では知りえない奥義がある」かのように主張する意見があるが、信仰者に与えられている、また与えられ得る全ての知識と経験は、キリストのうちにあり、キリストご自身が神の奥義であることが、この『コロサイびとへの手紙』と一緒に使徒パウロがローマから送ったとされる『エペソびとへの手紙』の中にも見つけられる「奥義」という言葉が指す意味からも理解できる。(この言葉は新約聖書で合計22回使われているが、上述に二つの書簡においては、合わせて11回も使われている。)

コロサイ1:25-28

25 わたしは、神の言を告げひろめる務を、あなたがたのために神から与えられているが、そのために教会に奉仕する者になっているのである。

26 その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのである。

27 神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。

28 わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として立つようになるためである。

コロサイ2:2-4

2 それは彼らが、心を励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るためである。

3 キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている

4 わたしがこう言うのは、あなたがたが、だれにも巧みな言葉で迷わされることのないためである。

コロサイ4:3-4

3 同時にわたしたちのためにも、神が御言のために門を開いて下さって、わたしたちがキリストの奥義を語れるように(わたしは、実は、そのために獄につながれているのである)、

4 また、わたしが語るべきことをはっきりと語れるように、祈ってほしい。

エペソ1:7-10

7 わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。

8 神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、

御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。

10 それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。

エペソ3:3-6

3 すなわち、すでに簡単に書きおくったように、わたしは啓示によって奥義を知らされたのである。

4 あなたがたはそれを読めば、キリストの奥義をわたしがどう理解しているかがわかる。

5 この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである。

6 それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである

エペソ3:8-11

8 すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、

9 更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである。

10 それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、

11 わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。

エペソ5:31-32

31 「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。

32 この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。 

  このように、キリストこそが私たちが知るべき奥義であり、信仰者はすでにその「キリストのうち、In Christ」にいきているのである。

 

(15)へ続く

安息日に関する検証(13)各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。

ローマ14:1-12

1 信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。

2 ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。

3 食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。

4 他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。

5 また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。

6 日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する。

7 すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。

8 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。

9 なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。

10 それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。

11 すなわち、「主が言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしに対してかがみ、すべての舌は、神にさんびをささげるであろう」と書いてある。

12 だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。 

 もし使徒パウロが元パリサイ派のユダヤ人として、新生した後も安息日を尊守することが神の御心であり、それを実践し、そして諸教会に教えていたとすれば、以下のような選択的な言葉をローマの教会に書き送ることは決してなかっただろう。

また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。日を重んじる者は、主のために重んじる。

 ローマの教会を構成していたユダヤ人信仰者もローマ人信仰者、もしくは市民権をもっていなかった奴隷の信仰者も、各自の確信に基づいて、「ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える」自由が保証されていたのである。

 そしてこの自由は、当時のローマの教会のみならず、現代においても世界各地の信仰者に対して与えられている自由である。だから「安息日の教え」に関して、現代の信仰者は同じように各自の確信に基づいて主のために選択し、実践すべきだろう。

  • 各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。
  • だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。
  • わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。
  • すべてのひざは、わたしに対してかがみ、すべての舌は、神にさんびをささげるであろう
  • わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。 

 これらの言葉は、私たち信仰者の一人一人に、選択の自由と共に個人的な責任が与えられていることが示されている。つまり誰かに教えられたから半信半疑で従うというのではなく、聖書の啓示に従って個人的に確信を求め、その確信を基に主の御前で仕えていくという責任である。

 

追記(2017年5月23日)

 土曜日を安息日として尊守するべきという見解の人々に中で、「パウロは、ここで論じているのは、食べ物のことについてである。さらに、17、21節にも飲食について論じている。1節から始まった文脈の連続で、その中に日のことまで言及しているのは第七日安息日のことでなく、ユダヤ人が守っていた祭りに関する安息日のことである。」と主張する人々がいる。文脈上、律法に関する食事の規定を語っているのだから、律法に基づく安息日に関して語っているのであって、「第七日目の安息日」についてではない、という意見である。

 まずその人々が勧めているように、文脈を読むと、13:8-10の「互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』というこの言葉に帰する。 愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。」の「愛は律法を全うする」という大きな主題があることがわかる。  

 その主題の文脈において、14章は「信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。」と始まり、15章も「わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。」と続いているわけである。  

 その文脈の中で、具体的に注意すべき要素として「食べ物に関する規定」や「日に対する尊守」であるわけだから、食事に関する規定について使徒パウロがより多くの言葉を費やしていても、それが他の要素を否定したり、取り消したりすることにはならない。  

 実際、14節には「肉を食わず、酒を飲まず、そのほか兄弟をつまずかせないのは、良いことである。」とあり、飲食に関することだけでなく、「そのほか」についても兄弟を躓かせないように注意を促している。この「その他」のことに「日に関する規定」や律法の他の規定が包括されているので、「14章は食事のことについて語っているのであって、安息日についてではない」という主張は根拠に欠けると言える。

 また「日に関する規定」が、律法の祭儀に関わる安息日に関して語っているのであって、「第七日の安息日」に関するものではない、という主張に関してであるが、そもそも主なる神は万物創造の七日目に、アダムとエバに「第七日の安息日」を守れという命令をしておらず、アダムからモーセの時代まで「第七日目の安息日」を守ったという記述もない。モーセの律法によって「第七日目の休息」を根拠に初めて安息日がイスラエルの民に対して定められてのだから、ローマ14:5に関して「第七日安息日のことでなく、ユダヤ人が守っていた祭りに関する安息日のことである。」という主張は、自分勝手な都合によって「安息日」を再定義している詭弁である。

 

関連記事:

安息日に関する考察(12)主イエスと使徒パウロ

マタイ12:9-10

9 イエスはそこを去って、彼らの会堂にはいられた。

10 すると、そのとき、片手のなえた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」と尋ねた。

マルコ1:21

それから、彼らはカペナウムに行った。そして安息日にすぐ、イエスは会堂にはいって教えられた。

マルコ6:1-2

1 イエスはそこを去って、郷里に行かれたが、弟子たちも従って行った。

2 そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。

ルカ4:16

それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。

 ルカ4:31

それから、イエスはガリラヤの町カペナウムに下って行かれた。そして安息日になると、人々をお教えになったが、

ルカ13:10-11

10 安息日に、ある会堂で教えておられると、

11 そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。 

 これらの聖句は、主イエスが地上の生涯において安息日に会堂の礼拝に参加していたことを示している。人間的な観点で言えば、御子は一人のユダヤ人であったのだから、神とイスラエルの民との契約のしるしとして尊守するように律法が命じていた安息日に、他のユダヤ人たちと共に礼拝に参加していたのは当然であろう。

 また救済論的観点から言えば、律法の下に閉じ込められていた契約の民を贖い出すために、そしてその律法を十字架の死によって完全に成就するために人となられてこの世界に来られたのだから何の矛盾もない。

マタイ5:17-18

17 わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。

18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。

ガラテヤ4:4-5

4 しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。

5 それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。

 しかしそのような神の永遠の贖いの計画も、そのために遣わされていた御子のアイデンティティーに関しても受け入れていなかった律法学者やパリサイ人らは、御子が安息日に人々を病気や罪の束縛から解放していたのを見て、「安息日を守っていない」と断罪し、さらに殺意をもつまで憎んだ。

ヨハネ9:16

そこで、あるパリサイ人たちが言った、「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」。しかし、ほかの人々は言った、「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」。そして彼らの間に分争が生じた。

ヨハネ5:16-18

16 そのためユダヤ人たちは、安息日にこのようなことをしたと言って、イエスを責めた。

17 そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。

18 このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。それは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである。 

 18節は注意して読むと、驚くべき表現を使っている。「イエスが安息日を破られたばかりでなく」。当然、ユダヤ人たちの観点からの見解であることは間違いないが、筆者であり、主イエスの弟子であったヨハネは、「ユダヤ人たちは、イエスが安息日を破ったと思い、・・・殺そうと計るようになった」と書けたはずである。

 同じような意外な表現は、御子自身も使っている。

マタイ12:5

また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。 

 ここでは御子自身が、安息日に宮仕えをしていた祭司たちは「安息日を破っている」が、罪には問われない、と言っているのである。ここで「破る」と和訳されている動詞【βεβηλόω bebēloō】は、「・・・を冒涜する、神聖を穢す」という意味を持つ。テルトロがローマ総督ぺリクスの前で、使徒パウロを訴えた時に使った、非常に強い言葉である。

使徒24:6

この者が宮までも汚そうとしていたので、わたしたちは彼を捕縛したのです。〔そして、律法にしたがって、さばこうとしていたところ、 

 マタイもヨハネも、もし初代教会の十二使徒たちが安息日の尊守を教会に教えていたら、絶対に書き残さなった表現だろう。つまりこれは初代教会が、律法における安息日の戒律に対して距離を置いた位置にいたことを暗示している。

 実際、エルサレムで開かれた初代教会の会議における決定事項の中には、「各地で安息日毎に会堂に集まって、モーセの律法を朗読しているユダヤ人たちに躓きを与えないために、各教会が守るべき4つの条件」の中に、「安息日の尊守」という条件はない。

使徒15:19-21

19 そこで、わたしの意見では、異邦人の中から神に帰依している人たちに、わずらいをかけてはいけない。

20 ただ、偶像に供えて汚れた物と、不品行と、絞め殺したものと、血とを、避けるようにと、彼らに書き送ることにしたい。

21 古い時代から、どの町にもモーセの律法を宣べ伝える者がいて、安息日ごとにそれを諸会堂で朗読するならわしであるから」。 

 「ユダヤ人は律法に従って安息日に会堂に集まって、モーセの律法を朗読し、礼拝を捧げているのだから、各教会もユダヤ人に倣って安息日を尊守すべきである」とは命じなかった。

 使徒パウロたちが宣教旅行の際に安息日に会堂に行っていたことを理由に、「使徒パウロは安息日を守っていた」と主張する意見がある。

使徒13:13-14

13 パウロとその一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡った。ここでヨハネは一行から身を引いて、エルサレムに帰ってしまった。

14 しかしふたりは、ペルガからさらに進んで、ピシデヤのアンテオケに行き、安息日に会堂にはいって席に着いた。

使徒17:1-3

1 一行は、アムピポリスとアポロニヤとをとおって、テサロニケに行った。ここにはユダヤ人の会堂があった。

2 パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基いて彼らと論じ、

3 キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと、また「わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである」とのことを、説明もし論証もした。

使徒18:4

パウロは安息日ごとに会堂で論じては、ユダヤ人やギリシヤ人の説得に努めた。

 しかし使徒パウロたちは、キリストの福音をまずユダヤ人に伝えるという宣教の原則に従って、宣教していたのである。

ヨハネ4:22

あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである

ルカ24:47

そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。

使徒1:8

ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。

使徒13:46

パウロとバルナバとは大胆に語った、「神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ。 

 興味深い事例がある。使徒パウロたちがローマの植民都市ピリピに訪れた時、安息日だったがその町には会堂がなかったので、おそらく祈りのために集まっているだろう人々を探して、町の近くを流れている川辺に行ったことである。

使徒16:12ー13

12 そこからピリピへ行った。これはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。わたしたちは、この町に数日間滞在した。

13 ある安息日に、わたしたちは町の門を出て、祈り場があると思って、川のほとりに行った。そして、そこにすわり、集まってきた婦人たちに話をした。 

  ユダヤ人が会堂のない町に住むことは禁じられていたのだから、もし使徒パウロが安息日を尊守していたとしたら、安息日に会堂のないピリピに残り、しかも川辺まで探しに行ったこと自体、妙な話である。この事例は、使徒パウロたちが失われた魂を探し、御言葉を伝えることを何よりも優先にしていたことを示している。

 また当時の会堂は、旅人に寝泊まりする場所(それは会堂の隅やベンチであったりした)を提供していたのだから、ユダヤ人として使徒パウロが宣教に利用していたのは当然だろう。

 エペソのおいて三か月の間、パウロの伝道によって聖霊の満たしを受けた12人の信徒らと共に、会堂のユダヤ人たちに福音を伝えていたが、彼らが頑なに受け入れず信じようとしなかったので、パウロは弟子たちを連れて会堂から離れ、ツラノの講堂という一種の学校の施設を借りて、特定の日だけでなく「毎日」福音宣教に専念した。

使徒19:1-10

1 アポロがコリントにいた時、パウロは奥地をとおってエペソにきた。そして、ある弟子たちに出会って、

2 彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた。

3 「では、だれの名によってバプテスマを受けたのか」と彼がきくと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えた。

4 そこで、パウロが言った、「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである」。

5 人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。

6 そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した。

7 その人たちはみんなで十二人ほどであった。

8 それから、パウロは会堂にはいって、三か月のあいだ、大胆に神の国について論じ、また勧めをした。

9 ところが、ある人たちは心をかたくなにして、信じようとせず、会衆の前でこの道をあしざまに言ったので、彼は弟子たちを引き連れて、その人たちから離れ、ツラノの講堂で毎日論じた

10 それが二年間も続いたので、アジヤに住んでいる者は、ユダヤ人もギリシヤ人も皆、主の言を聞いた。 

 つまり使徒パウロが安息日に会堂に行っていたのは、福音宣教が目的であったからで、「律法の下にいるユダヤ人の同胞」を何とか救いたいという願いからくるものだったのである。

Ⅰコリント9:19-23

19 わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。

20 ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである

21 律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。

22 弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。

23 福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。 

 

追記1(2017/05/10)

使徒20:7

週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。 

 安息日の尊守を主張する人の中には、この聖句の「週の初めの日」の「初め」と和訳されている原語【μία mia】の正しい訳は、「初め first」ではなく「ひとつ one」であると主張し、【μια των σαββατων】は「one of the Sabbaths」と訳すのが正しいとする。

 しかしここでの【σαββατων】が複数形なのは、へブル・アラム語的用法で「安息日と安息日の間、つまり週、もしくは集合名詞的用法の安息日」というニュアンスをもつ。さらにこの文脈において【μία mia】の前に定冠詞【τη】がついているので、やはり「週の初めの日」という訳が妥当である。

 また前後の文を読んでみると、「one of the Sabbaths」という訳が適切でないことがわかる。

使徒20:4-7;11

4 プロの子であるエペソ人ソパテロ、テサロニケ人アリスタルコとセクンド、デルベ人ガイオ、それからテモテ、またアジヤ人テキコとトロピモがパウロの同行者であった。

5 この人たちは先発して、トロアスでわたしたちを待っていた。

6 わたしたちは、除酵祭が終ったのちに、ピリピから出帆し、五日かかってトロアスに到着して、彼らと落ち合い、そこに七日間滞在した

7 週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。
11 そして、また上がって行って、パンをさいて食べてから、明けがたまで長いあいだ人々と語り合って、ついに出発した。 

 もし使徒パウロがトロアスに何週間とか何か月も滞在していたとしたら、「多くの安息日の中のある安息日」というニュアンスも使うことができたかもしれないが、使徒は7日間しか滞在しなかったのである。

 だからこの節をもって、「使徒パウロは安息日を尊守していたから、私たちも同じように尊守しなければならない」という主張には文法的観点でも文脈的にも根拠はない。

 さらにほとんど全ての英訳や和訳聖書が、「And on the first day of the week」「週の初めの日」と訳しているのに対して(こちらのサイトで確認できる)、「翻訳が間違っている」と断定してしまうのは、非常に危険な姿勢だと言える。

 ちなみに私が調べた範囲では、「one of the Sabbaths」と訳している英訳バージョンは、Adolph Ernest KnochによるCLV(Concordante Literal Version)しか見つけられなかった。Good News Translationは、「On Saturday evening」と訳している。イタリア語や日本語の翻訳聖書においては、全く存在しない。

 このCLVバージョンのAdolph Ernest Knochは、地獄を否定したり、御子が父なる神と同等の神性をもつことを否定したりして、そのまま受け入れるには多くの教義的問題を抱えていると思われる。

 

追記2(2017年5月23日)

 使徒パウロがもし諸教会に安息日を尊守するように教えていたとしたら、ガラテヤ教会に対して書いた手紙において、以下のような表現は決して使わなかっただろう。

ガラテヤ4:8-11

8 神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ならぬ神々の奴隷になっていた。

9 しかし、今では神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに、どうして、あの無力で貧弱な、もろもろの霊力に逆もどりして、またもや、新たにその奴隷になろうとするのか。

10 あなたがたは、日や月や季節や年などを守っている。

11 わたしは、あなたがたのために努力してきたことが、あるいは、むだになったのではないかと、あなたがたのことが心配でならない。 

 もしガラテヤの信徒たちが「日(安息日)や月(新月)や季節(各種の祭)や年(安息年)などを守っている」ことを、使徒が肯定的にとらえていたら、ガラテヤ教会に対する自分の働きを「無駄になったのではないか」と心配したり、ガラテヤの信徒たちを「奴隷になろうとしている」とは決して言わなかったはずである。これは使徒パウロが安息日や新月、各種の祭、安息年などを尊守する必要がないと教えていたことを明示している。

 

(13)へ続く