an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

安息日に関する考察(15)神の安息

へブル4:1-11

1 それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。

2 というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。

3 ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、「わたしが怒って、彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、誓ったように」と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。

4 すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、

5 またここで、「彼らをわたしの安息に、はいらせることはしない」と言われている。

6 そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、

7 神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。

8 もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。

9 こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。

10 なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。

11 したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。 

 9節「こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。」を読んで、「だから新約の時代でも安息日の休みの戒めは、有効である」という解釈をする立場がある。確かに日本語訳聖書において、この一節だけを文脈から切り離して読めば、そのように解釈してしまうのも無理はない思う。上に引用した口語訳以外の和訳聖書でも、やはり日本語独特の問題で似たような状況ではないかと思う。

  • (文語訳)然れば神の民の爲になほ安息は遺れり。
  • (新改訳)したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。
  • (新共同訳)それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。
  • (岩波委員会訳)やはり、神の民には安息日の祝いが残されているのである。
  • (塚本訳)それだから、神の民[キリストを信ずる者]には安息が残っているのである。

 この節で「安息日」もしくは「安息」と訳されている原語【σαββατισμός sabbatismos】は、新約聖書の中でもこの節でしか使われていない特殊な単語で、ギリシャ語旧約聖書LXX訳においても使われていない。

 定冠詞がついていないので、英語訳では不定冠詞を付けて「a rest」「a sabbath rest」と訳されている。つまりこの文脈でこの単語が意味する「sabbatismos」は、モーセの律法によって民に与えられた週に一回の安息日ではなく、神の民がいまだに経験していない「ある一つの休息」というニュアンスである。

 実際、前後にある聖句がそのニュアンスを説明している。まず8節には「もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。」とあり、ヨシュアに導かれ約束の地に入ったイスラエルの民が、律法によって定められていた週一回の安息を守っていた、その安息について語っているのではないことがわかる。

 さらに1節に「神の安息にはいるべき約束が、まだ存続している」、4節には「七日目のことについて、『神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた』」、5節の「わたしの安息」について6節で「その安息にはいる機会が、人々になお残されている」、そして10節には「神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだ」とあるので、9節にある信仰者の約束されている「一つの休息」とは、「神の安息」つまり神が創造のわざを完全に終えて七日目にすべてのわざから休まれたように、最終的に贖いのわざを完成させて、永遠の御国を実現する、その「神の安息」である。

 ちなみに1節や3節、5節、10節で「安息」と和訳されている原語【κατάπαυσις katapausis】は、「滞在、住居」という意味ももつ。

 「神の安息にはいるべき約束が、まだ存続している」「その安息にはいる機会が、人々になお残されている」ということは、まだ神の贖いのわざが完成しておらず、神もわざを終えて休んではいないことを示している。実際、御子がある安息日に「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」(ヨハネ5:17)と言った通りである。

 以下の聖句も、神のわざがまだ継続中であることを示している。

ローマ8:23

それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。

Ⅱコリント4:16

だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。

Ⅱコリント6:2

神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。

エペソ1:14

この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。

へブル3:13

あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。

  この約束された「神の休息」は、新しい天と新しい地において完全に、そして永遠に成就する。そこには、アダムとエバの堕罪の結果として人類に入りこんでいた「労苦」や「苦痛」、「のろい」、そして「神からの断絶という死」は完全に消え去り、神のいのちと平安がすべてとなるのである。「この日がかの日よりも大事である」と確信する信仰者も、「どの日も同じである」と確信する信仰者も、結局、この神の永遠のいのちにある休息を信じ、その実現を慕い求めている。

黙示録21:1-7

1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。

2 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。

3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、

4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

5 すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。

6 そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。

7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

黙示録22:1-5

1 御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、

2 都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。

3 のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、

4 御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。

5 夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。