an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「永遠の命にあずかるように定められていた者」に関する検証

 使徒13:38-49

38 だから、兄弟たちよ、この事を承知しておくがよい。すなわち、このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。そして、モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても、 

39 信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである。 

40 だから預言者たちの書にかいてある次のようなことが、あなたがたの身に起らないように気をつけなさい。 

41 『見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。わたしは、あなたがたの時代に一つの事をする。それは、人がどんなに説明して聞かせても、あなたがたのとうてい信じないような事なのである』」。 

42 ふたりが会堂を出る時、人々は次の安息日にも、これと同じ話をしてくれるようにと、しきりに願った。 

43 そして集会が終ってからも、大ぜいのユダヤ人や信心深い改宗者たちが、パウロとバルナバとについてきたので、ふたりは、彼らが引きつづき神のめぐみにとどまっているようにと、説きすすめた。 

44 次の安息日には、ほとんど全市をあげて、神の言を聞きに集まってきた。 

45 するとユダヤ人たちは、その群衆を見てねたましく思い、パウロの語ることに口ぎたなく反対した。 

46 パウロとバルナバとは大胆に語った、「神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ。 

47 主はわたしたちに、こう命じておられる、『わたしは、あなたを立てて異邦人の光とした。あなたが地の果までも救をもたらすためである』」。 

48 異邦人たちはこれを聞いてよろこび、主の御言をほめたたえてやまなかった。そして、永遠の命にあずかるように定められていた者は、みな信じた。 

49 こうして、主の御言はこの地方全体にひろまって行った。 

  48節の「永遠の命にあずかるように定められていた者」(新改訳:「永遠のいのちに定められていた人たち」)という箇所は、よくカルヴァン主義の予定説、つまり「全知の神は、ご自身の絶対的な主権によって誰が魂の救いを受け、誰が滅びに至るかあらかじめ決めておられる」という説の根拠として引用される。

 今まで何世紀にも渡って議論されてきた内容なので、私がここで議論を蒸し返すまでもないだろう。そもそも時間や空間に制限されない永遠の神、全知全能の神が、その絶対的主権によって個人の救いや滅びを予定していたとしても、その同じ神が「全ての人が救われるのを望み」、その動機のゆえに「全ての人のために御子のいのちを犠牲にした」ならば、そして人間には誰が救われるか、救われないか、知ることができず、地上の生の最後の瞬間まで救いの可能性が与えられているとするならば、宣教命令を蔑ろにしてまで延々と議論をする意味が果たしてあるのか、私には甚だ疑問である。

 つまり自分の目の前にいる一人の人が、「救いのために定められているか、それとも滅びるために定められているか」、誰も知ることが許されていないと主張するならば、「神はその魂を救いたいと願っている」という前提的真理に意識を集中させるべきではないのだろうか。

ローマ5:18

このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。

Ⅱコリント5:14-15

14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。

15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。

Ⅰテモテ2:4

神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。

Ⅰテモテ4:10

わたしたちは、このために労し苦しんでいる。それは、すべての人の救主、特に信じる者たちの救主なる生ける神に、望みを置いてきたからである。

テトス2:11

すべての人を救う神の恵みが現れた。

Ⅱペテロ3:9

ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。 

 この「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」という大前提に基づいて冒頭の箇所の読み返すと、より正確な解釈が見えてくると思う。

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 第一次伝道旅行においてパウロとバルナバは、ピシデヤのアンテオケに行き、安息日の会堂(シナゴーグ)において、そこにいた会衆(ユダヤ人や信心深い改宗者たち 16節、43節参照)に対して、「兄弟たちよ」と呼びかけ、「このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。」と宣言した。その福音は、「信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである。」というメッセージであった。

 使徒たちは、アンテオケの会堂の何人かを選んで救いの福音を語らなかった。その場にいた聴衆の全員に対して呼びかけ、皆に罪の赦しの福音を宣べ伝えたのである。しかしその福音は「万人救済の福音」ではなく、「信じる者がすべて救われる」という「信仰による救いの福音」であった。

 これはパウロやバルナバだけでなく、聖霊に満たされた聖徒らが宣べ伝えていた「神の福音」である。

ヨハネ3:16

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 

 さらに、見逃してはならない点は、パウロとバルナバが信じる者全てに与えられる救いを語った同じ聴衆に対して、同時にその神の福音を侮ることに対する警告を予めしていることである。

だから預言者たちの書にかいてある次のようなことが、あなたがたの身に起らないように気をつけなさい

『見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。わたしは、あなたがたの時代に一つの事をする。それは、人がどんなに説明して聞かせても、あなたがたのとうてい信じないような事なのである』

 もし使徒らが予定論を前提に語っていたとすれば、この警告は意味がなかったはずである。もし滅びることがあらかじめ決定されているのなら、何をどう気をつければそれが起きないというのだろうか。

 また集会が終わった後にも使徒たちから話を聞こうと従っていた人々に対して、「引きつづき神のめぐみにとどまっているようにと、説きすすめた。 」とあるが、救われることが予定されているのならば、神の恵みに留まっているように勧告する意味はないだろう。

 しかし次の週の安息日に、使徒らは同じ会堂に集まったユダヤ人たちに対して、以下のような厳しい宣告をしているのである。

神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまった

 誰が誰をどのように「永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまった」のだろうか。それはユダヤ人たちが自分自身を、福音を退けることによって、である。ここでは明らかに、予定論にはよらず、福音を受け入れることを拒否したその選択が、全ての人に与えられていた可能性から自ら除外する根拠と見なされているのである。

 それゆえ、「永遠の命にあずかるように定められていた者」における「定められていたこと」とは、「神の福音を信じる者はみな、誰でも救われ、永遠の命を得る」という神の契約の条件であり、実際に異邦人がその条件に従って救われていたことを証ししているのだと思う。

異邦人たちはこれを聞いてよろこび、主の御言をほめたたえてやまなかった。そして、永遠の命にあずかるように定められていた者は、みな信じた。