an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

人の知恵によらず、神の力による信仰

Ⅰコリント2:1-5

1 兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。 

2 なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。

3 わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。 

4 そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。 

5 それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。 

 「人間の巧みな知恵の言葉によらない」、「十字架につけられたキリスト」だけを源泉とする「神の力による信仰」を、私達は知っているだろうか。それに生きているだろうか。一瞬の恍惚を味わうことでも、頭の上から電流が流れるような体験とかいう問題ではなく、本当に十字架につけられたキリストからのみ湧き出る神の力によって、自分の信仰が支えられているだろうか。

 これには、信仰者それぞれの中で意識的選択が迫られる。使徒パウロは、ギリシャのコリントへ行く前にアテネのアレオパゴスで宣教活動したのだが、そこで使ったのと同じアプローチで、コリントの人々に対して伝道することもできたはずである。

使徒17:16-32

16 さて、パウロはアテネで彼らを待っている間に、市内に偶像がおびただしくあるのを見て、心に憤りを感じた。 

17 そこで彼は、会堂ではユダヤ人や信心深い人たちと論じ、広場では毎日そこで出会う人々を相手に論じた。 

18 また、エピクロス派やストア派の哲学者数人も、パウロと議論を戦わせていたが、その中のある者たちが言った、「このおしゃべりは、いったい、何を言おうとしているのか」。また、ほかの者たちは、「あれは、異国の神々を伝えようとしているらしい」と言った。パウロが、イエスと復活とを、宣べ伝えていたからであった。 

19 そこで、彼らはパウロをアレオパゴスの評議所に連れて行って、「君の語っている新しい教がどんなものか、知らせてもらえまいか。 

20 君がなんだか珍らしいことをわれわれに聞かせているので、それがなんの事なのか知りたいと思うのだ」と言った。 

21 いったい、アテネ人もそこに滞在している外国人もみな、何か耳新しいことを話したり聞いたりすることのみに、時を過ごしていたのである。 

22 そこでパウロは、アレオパゴスの評議所のまん中に立って言った。「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。 

23 実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。 

24 この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。

25 また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、 

26 また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。 

27 こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。

28 われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、『われわれも、確かにその子孫である』。 

29 このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。 

30 神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。 

31 神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。 

32 死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った。 

 使徒パウロは、さらに多くのギリシャ哲学者の言葉を引用しながら、人々の関心を引き寄せることもできたであろう。彼はまた「イエスと復活とを宣べ伝えていた」し、「万物を造った神、天地の主」を説き、「悔い改めなければならない」と勧めていた。しかも、そのパウロの伝道によって、聴衆の中の幾人は救われていたのである!キリストの証し人であったら、誰でも心願う結果を得ていたのである。

使徒17:34

しかし、彼にしたがって信じた者も、幾人かあった。その中には、アレオパゴスの裁判人デオヌシオとダマリスという女、また、その他の人々もいた。 

 それでも、パウロ本人をして「わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまい」と固く決心させる何かが欠けていたのだろう。

 自分に少しでも正直であろうとする信仰者ならば、いくら周囲の人々があなたとあなたの知識を誉めちぎったとしても、その「足りない何か」の存在を無視することができず、十字架に架けられたキリスト・イエスの御前に跪いて祈り求めるしかないことを知っている。

 そしてそれは一度だけの経験ではなく、この世に生きている限り、何度も何度も繰り返し導かれる信仰の原点である。