聖霊によって目の前に描き出された「十字架につけられたイエス・キリスト」
ガラテヤ3:1ー5(新改訳)
1 ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。
2 ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。
3 あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。
4 あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょうが。
5 とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行なわれた方は、あなたがたが律法を行なったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。
パリサイ派出身の偽教師によって惑わされていたガラテヤ地方の信徒らに対して、使徒パウロは非常に強い語調を使って、彼らの信仰の歩みの原点まで連れ戻し、彼らの目を覚まそうとしている。
十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。
「あんなにはっきり示された」(口語訳:描き出された 原語 προεγραφη proegraphE)は受動態である。つまりガラテヤの人々が自分たちのイメージ能力を基に、十字架につけられたイエス・キリストを頭の中に想像してみたのではなく、ましてや人間の手によって表現された宗教画や映像を目の前にして、自分自身をその状況に融合させようと努力したわけでもなかった。信仰の言葉が宣べ伝えられたことによって、聖霊が働き、神自身が聞いている人々の心の中に十字架につけられたイエス・キリストをまざまざと啓示してくださった、という意味である。
その働きは今から二千年前のガラテヤの人々の救いのためだけではなく、映像の時代の現代においても主なる神は同じ働きで人々の魂を救いへと導く。私たちは聖霊が同じように救いの源泉である「十字架につけられたイエス・キリスト」を描き出してくださることを期待して、御言葉を曲げず、与えられたままにまっすぐ宣べ伝えていこう。
Ⅱコリント4:1-2
1 こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、
2 恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。
Ⅱテモテ2:15(新改訳)
あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。