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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

キリストの再臨と終末預言に関する聖書研究

 サイト『牧師の書斎』に、キリストの再臨と終末預言に関する聖書研究があるので是非参考にして頂きたい。非常に明瞭な図解付で、原語の解説も役に立つと思う。キリストの再臨に関しては、現段階で私が聖書を通じて確信を得ている理解とほぼ同じである(まだ公開されていない第三部に関しては意見できないが)。

キリストの再臨と終末預言』 

 特に第二部『キリストの空中再臨と教会の携挙 (その二)』の以下の解説は、前から知っていたが、改めて読むと納得いく説である。

2. 翻訳的見地(原語)からの「携挙」の根拠

 

(1)Ⅱテサロニケ2章3節 ―「背教」ではなく、「離れること」―

 

【新改訳改訂第3版】

2:1 さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。

2:2・・・主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。

2:3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。

2:4 彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。 

 

テサロニケの手紙第二が、なぜ書かれたのかと言えば、「主イエス・キリストが再び来られること」〔すなわち、キリストの再臨〕と、「私たち〔すなわち、聖徒〕が主のみもとに集められること」〔すなわち、携挙〕に関して、テサロニケ教会の中に混乱が生じていたからです。換言すると、テサロニケ教会の中に、聖徒を天に引き上げるためのキリストの空中再臨と、大患難期の後に反キリストを滅ぼすために再臨されるキリストの地上再臨とを、混同する者たちが現われたことで、それを明確にするためにパウロはこの手紙(第二)を書いたのです。

テサロニケの教会に対して、すでに「主の日」がすでに来たということを聞いても、落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないように、だまされないようにしてください、とパウロは言っています。つまりパウロは、「主の日」が来るには、ある順序があるということをここで教えようとしているのです。その順序とは、新改訳によれば、

(1) 「まず背教が起こる」

(2) 「不法の人(反キリスト、滅びの子)」が現われる

(3) そして「主の日」、つまりキリストの再臨が来る

しかしここで厄介な問題は、「まずは背教が起こる」と訳されていることです。この「背教」と訳された原語は「へ(ή)・アポスタシア(άποστασία)」です。アポスタシアは二通りの訳があります。ひとつは「背教」とか「反乱」と訳し、もうひとつは「出発」「離別」と訳します。この名詞「アポスタシア」の動詞である「アフィーミ」(άφίστημι)を調べると、15回のうち3回は「背教する」と訳されますが、あとの12回は「去る、離れ去る」と訳されています。したがって、Ⅱテサロニケ2章4節の「背教」(新共同訳は「反逆」)は、むしろ「出発」とか「移動」と訳すべきで、山岸登氏も「冠詞付の離別」とは「携挙」を意味していると述べています。また、2章1節に「私たちが主のみもとに集められること」とあるので、ここは「(主の日が来る前に)まずその離別(携挙)があり、その次にあの不法の人、すなわち「滅びの子」が現われなければならないからです」と訳すべきだとしています。聖徒を天に引き上げるために来るキリストの「空中再臨」と、不法の人を滅ぼすために来る「地上再臨」とを混同してはならないのです。明瞭に、区別されなければなりません。

「アポスタシア」についてのこの見解は、英訳聖書の翻訳の歴史においも、KJV訳以来、「離れる」「離れること」と訳されて来た、とエマオ出版訳の山岸氏は述べています。もしこの見解が正しければ、患難期前携挙説の有力な聖書的根拠となります。

(2)ヨハネの黙示録3章10節

「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」

 

この箇所での翻訳上の問題は、「全世界に来ようとしている試練の時には」の「時には」という訳です。「全世界に来ようとしている試練」とは、反キリストによる未曾有の大患難のことです。新改訳ではその「試練の時には」と訳しています。しかし原文では「~の時の中から」となっています。「時には」と訳されると、キリスト者もその試練の中にいることになります。しかし「~の時の中から」と訳すなら、その試験の中にはキリスト者はいないことになります。「大患難前携挙説」ではその試練(大患難)の中から救われることになますが、「大患難後携挙説」ではその試練(大患難)の中に置かれることになります。これまでに挙げた聖書のことばとの整合性を考えるならば、前者の「大患難前携挙説」の方がきわめて自然といえます。

 

主にある者も「世にあっては患難があります」(ヨハネ16:33)と言われましたが、ここで問題となっているのはそのような一般的な患難とは異なり、これまでにない未曾有の神のさばきとしての大患難のことであり、その目的も神の選びの民に対する最後のあわれみの時としての精錬的な試練なのです。そうした精錬的試練に神の子どもたちが遭う必要性はないからです。むしろ主の携挙があることを信じて、緊迫感を持って、いつも目を覚ましていることが求められているのです。

 是非、実際に聖書を開き、検証しつつ、主イエス・キリストの御前で各自確信を得ていただきたい。

 

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