an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「主の日」に関する考察(1)

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Ⅱペテロ3:5-14

5 すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、 

6 その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。 

7 しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。 

8 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。 

9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。 

10 しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。 

11 このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、 

12 極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。 

13 しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。 

14 愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。 

 この引用箇所は、「主の日」について繰り返し詳細に言及している。

  • 不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日
  • その日は盗人のように襲って来る
  • 天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされる日
  • 神の日
  • 天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう日
  • 今の天と地が火で焼かれ、義の住む新しい天と新しい地が創られる日

 このペテロによる啓示と黙示録の啓示を照らし合わせると、主の日はキリストの千年王国が終った後と、新しい天と新しい地の創造の間に行われる最後の審判のことであることが判る。

黙示20:7-15;21:1

7 千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。 

8 そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。 

9 彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。 

10 そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。 

11 また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 

12 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。 

13 海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。 

14 それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。

15 このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。 

21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。 

 しかし、昨日の記事(終わりの時が終る前に - an east window)に書いたように、主の日は千年王国が実現する前、キリストが七つの封印の巻物を開けるときにすでに始まっているのである。

ヨエル2:10,11,31

10 地は彼らの前におののき、天はふるい、日も月も暗くなり、星はその光を失う。 

11 主はその軍勢の前で声をあげられる。その軍隊は非常に多いからである。そのみ言葉をなし遂げる者は強い。主の日は大いにして、はなはだ恐ろしいゆえ、だれがこれに耐えることができよう。 

31 主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。 

黙示6:12-17

12 私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。

13 そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。

14 天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。

15 地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、

16 山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。

17 御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」

 つまり「主の日」とは、ある特定の一日、二十四時間のことを指すのではなく、七つの封印をもつ巻物が開けられる時から、地上に神の裁きが行われ、キリストが地上で千年王国を築くために再臨し、神の義が成就する千年王国を挟んで、最後の審判が行われるまでの期間を指していることになる。要するに、悪の裁きという面も含め「神の義」がこの地上に完全に現れる期間の事であると言える。だからこそ、預言書の中でも、同じ書において主の日を「恐ろしい神の裁きの日」と預言すると同時に、「神の義と祝福が地上において実現する日」という二つの要素が同時に啓示されているのである。

ヨエル1:15

ああ、その日はわざわいだ。主の日は近く、全能者からの滅びのように来るからである。 

ヨエル2:1-3

1 あなたがたはシオンでラッパを吹け。わが聖なる山で警報を吹きならせ。国の民はみな、ふるいわななけ。主の日が来るからである。それは近い。 

2 これは暗く、薄暗い日、雲の群がるまっくらな日である。多くの強い民が暗やみのようにもろもろの山をおおう。このようなことは昔からあったことがなく、後の代々の年にも再び起ることがないであろう。 

3 火は彼らの前を焼き、炎は彼らの後に燃える。彼らのこない前には、地はエデンの園のようであるが、その去った後は荒れ果てた野のようになる。これをのがれうるものは一つもない。 

ヨエル3:17ー21

17 「そこであなたがたは知るであろう、わたしはあなたがたの神、主であって、わが聖なる山シオンに住むことを。エルサレムは聖所となり、他国人は重ねてその中を通ることがない。 

18 その日もろもろの山にうまい酒がしたたり、もろもろの丘は乳を流し、ユダのすべての川は水を流す。泉は主の家から出て、シッテムの谷を潤す。

19 エジプトは荒れ地となり、エドムは荒野となる。彼らはその国でユダの人々をしえたげ、罪なき者の血を流したからである。 

20 しかしユダは永遠に人の住む所となり、エルサレムは世々に保つ。 

21 わたしは彼らに血の報復をなし、とがある者をゆるさない。主はシオンに住まわれる」。 

アモス5:18-20

18 わざわいなるかな、主の日を望む者よ、あなたがたは何ゆえ主の日を望むのか。これは暗くて光がない。 

19 人がししの前を逃れてもくまに出会い、また家にはいって、手を壁につけると、へびにかまれるようなものである。 

20 主の日は暗くて、光がなく、薄暗くて輝きがないではないか。 

アモス9:11

その日には、わたしはダビデの倒れた幕屋を興し、その破損を繕い、そのくずれた所を興し、これを昔の時のように建てる。 

 昨日、「終わりの時」という、キリストの受肉から十字架の死そして復活、昇天そして聖霊の注ぎ、異邦人の救いの時、教会の携挙、七つの封印の巻物の開封までという二千年にも及ぶ期間について書いたが、この「主の日」も同様に、キリストの千年王国を跨る長い期間の事を啓示しているのである。

 使徒ペテロが「主の再臨の約束の成就」と「主の日の訪れ」について語っている中で、「主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである」という節を挿入していることは、単なる偶然ではない。

 時間の中に生きている私達にとって、忘れがちな真理である。時間を超える永遠の神にとっては、過去も現在も未来も同質なものとして存在している。そんな無限の神が、時間の中に閉じ込められている私達を解放してくれるのが、祈りのなかでのキリストとの交わりである。その祈りにおいて私達は「永遠の本質」つまり「神の命」を体験する。

 

追記(2017/04/22):

 使徒ペテロは、千年王国の後の万物更新の後に現れる「新しい天と新しい地」に、「義が住む」と啓示している。つまり「新しい天と新しい地」には神の義が完全な状態で成就し、永遠のその義が保たれる(住む)ことを示している。

 また使徒パウロは、地上の使命を戦い抜き、御前に立つ時、「義の冠」を受け取るだろうと告白している。それはつまり、神の義がパウロの人生によって勝利したことのしるしである。

Ⅱテモテ4:6-8

6 わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。

7 わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。

8 今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。

 だから「新しい天と新しい地を待ち望む」や「主の出現を心から待ち望む」 ということは、神の義が完全に成就することを渇望することを意味する。

マタイ5:6

義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。

 

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