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「アポスタシア」の訳について(2)

キリストの再臨と終末預言に関する聖書研究 - an east window

しかしここで厄介な問題は、「まずは背教が起こる」と訳されていることです。この「背教」と訳された原語は「へ(ή)・アポスタシア(άποστασία)」です。アポスタシアは二通りの訳があります。ひとつは「背教」とか「反乱」と訳し、もうひとつは「出発」「離別」と訳します。この名詞「アポスタシア」の動詞である「アフィーミ」(άφίστημι)を調べると、15回のうち3回は「背教する」と訳されますが、あとの12回は「去る、離れ去る」と訳されています。したがって、Ⅱテサロニケ2章4節の「背教」(新共同訳は「反逆」)は、むしろ「出発」とか「移動」と訳すべきで、山岸登氏も「冠詞付の離別」とは「携挙」を意味していると述べています。 

 前後が逆になるが、「アポスタシア apostasia」の訳そのものについても検証してみたい。個人的には、名詞形「アポスタシア」の動詞形である「アフィーミ」が、新約聖書において十五回中十二回「去る、離れ去る」と訳されているから、「背教」や「反逆」より、むしろ「出発」とか「移動」と訳すべきだ、という論理が、解釈学上有効であるかは疑問を感じる。一つの単語に多数の意味がある場合、それぞれの文脈において適切な語義が決められるのであって、使われた回数や「多数決」ではないからである。

 むしろ、同じ「アポスタシア」の主格ではなく対格「アポスタシアン apostasian」が使徒21:21において使われており(新約聖書ではⅡテサロニケ2:3とこの個所の二回だけである)、日本語訳では「離反する」「離れる」「背く」「遠ざかる」と訳されている事の方が直接的な根拠となるのではないだろうか

 また同じ名詞の中性対格「アポスタシオン apostasion」は、新約において三回使われているが(マタイ5:31や19:7、マルコ10:4)、「離縁、離婚」と訳されていて、「離別」という語義をもつ。だから「離反する」「離れる」「遠ざかる」というニュアンスは、間違っていない。ただ対象が神ならば「神から遠ざかる、つまり背教」という意味になるし、教会ならば「(この世から)離れる、つまり携挙」という解釈ができるわけである。残念ながらⅡテサロニケ2:3自身は、明確に示していない。

 おそらく7,8節との比較が、私達の理解を助けてくれるのではないだろうか。

Ⅱテサロニケ2:7,8

7 不法の秘密の力が、すでに働いているのである。ただそれは、いま阻止している者が取り除かれる時までのことである。 

8 その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。 

  • 3節「まずへ・アポスタシア(背教もしくは携挙)が起り、不法の者、すなわち、「滅びの子が現れる」
  • 7,8節「いま阻止している者が取り除かれる時」「その時」になると、「不法の者が現われる」。

 この二つのプロセスを比較すると、「へ・アポスタシア」が「不法の者の顕現を阻止している者が取り除かれる」と平行体をなしていて、同義であるという解釈は、文脈上の根拠を持っていると言えるのではないだろうか。そしてこの「阻止している者」とは、聖霊の器であるキリストの教会のことであると思う。

 

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