an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

御子イエス・キリストという名の充溢(6)

コロサイ1:15-20

15 御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。 

16 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。 

17 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。 

18 そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。 

19 神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、 

20 そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。 

 ここには、御子の充溢の本質が啓示されている。それは万物(人間が認知できるものとできないものを含めた全て)の発端(御子にあって造られた)であり、動因(御子によって造られ)であり、目的(御子のために造られた)であり、秩序調和(万物は彼にあって成り立っている)である。

 私達の理性はどうしても御子の充溢に量的概念を適用しがちであるが、それは何よりも質的なものである。つまり膨張していくうちに希薄になって、構造と秩序を失うようなイメージではない。どの部分を観察しても、全体と同じような秩序と調和といのちが満ち満ちているのである。

 なぜならそれは神の存在そのものだからである。御子は、「見えない神のかたち」(口語訳)「見えざる神の形姿」(岩波訳)「見えぬ神の」(前田訳)「見えない神の姿」(新共同訳)であり、父なる神が「御子のうちに全ての満ち満ちた徳を宿らせ」たからである。

 今現在、私達の限られた知識や判断力には不条理にしか思えないことも、「十字架の血」つまり御子の死によって、神が万物を和解の領域に置いていると知ることは、本当に革新的なことではないだろうか。

そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。

  一人の信仰者は、彼/彼女自身疎外され、無に等しい存在でも、充溢したキリストのからだにあって、神の満ち満ちた力や調和やいのちを個人的に体験し、知ることができるのである。