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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

神の本質に内在するキリストの十字架(1)

「イエス・キリストと十字架につけられたキリスト」 - an east windowのコメント欄において、「十字架の死における復活の相」と「復活における十字架の相」に関して質問を受けたので、改めて考察をしてみたい。主イエス・キリストのパーソンの最も核心的な領域に触れる内容なので、その霊的に深遠なことを十分な説明や決定的な表現ができるとは考えていないが、ただ御子イエスの素晴らしさを探究するための、ひとつの材料となればと思う。

 創造主なる神が、「命の源泉」であり、「栄光に満ちた方」であるという啓示は、容易に納得できるが、その栄光の神の本質に「死」しかも「十字架の死」が内在している、といえば、多くの人にはあってはならない「汚点」のように思えるかもしれない。

 そこでまず「神の本質にキリストの死が啓示されている」という解釈できる箇所を考察してみよう。

 神はそもそもなぜこの宇宙を創造し、人間に御自身のかたちに造り、霊を与え、見える世界だけではなく「永遠を思う思い」(伝道の書3:11)を与えたのか。神にそれを行う「義務」があったのだろうか。それとも「孤独だったので、愛する対象が必要だった」のだろうか。「父・御子・御霊」の三位一体の神は、その本質が「愛」である。彼は必要に迫られてでもなく、誰かに強いられたわけでもなく、ただ「愛」によって、御自身を認識し、その愛に応答することができる存在を創造したのである。そしてその神の愛に対する応答は、強いられたものでも必要に迫られたものでもなく、自由意志に基づいた個人の選択でなければ、愛は愛として成立しないのである。

 ここに根源的なジレンマがある。つまり、「自由意志に基づいた個人の選択」には当然、神の愛を拒否する選択肢が潜在し、もし二つの選択肢が無ければ自由意志も存在できず、愛も成り立たない。勿論、神は御自身の愛を拒否する選択を望まないし、それを喜ばない。そのネガティブな選択肢は、自由意志をもった存在の創造の、避けることのできない帰結である。

 主なる神は、もともと光の天使であったサタンや、人間が神の権威を認めず、神の愛を否定する選択肢を取る可能性を予め知りながらも、全てを創造する計画をたてた。しかも驚異的なことは、神の権威を認めず、神の愛を否定する選択肢を取る人間のその罪を赦し、その魂を贖うために、愛する御子が十字架の上で死ぬことを予め知りながらも、その壮絶な贖罪のわざを永遠の霊によって備えていたのである。

へブル9:14

永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。

 「永遠の霊によって」つまり天地が創造される前に存在していた神の霊によって、キリストは命を捧げたのである。従ってその犠牲の死は決して偶発的ものではなく、神の霊の永遠性のうちに、自由意志をもった存在の創造に伴う「死」が、御子において内在しているのである。

 へブル2:10には、さらに驚くべき啓示がある。

なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。 

 その「御子の死」が、「万物の帰すべき方、万物を造られた方」つまり神にとって「ふさわしいこと」だったというのである。神の独り子、栄光のキリストが、極悪犯罪人や反逆者などに対して執行されていた十字架の磔刑を通ったことが、神にふさわしいことであったとは、何という宣言だろうか。ある父親が、自分の子が潔白であるのに無残に処刑されるのを見て、「これは自分にふさわしい」というだろうか。人間的には、ありえない、「あってはならないこと」である。使徒ペテロが驚いて、イエスに反論したことも理解できる。

マタイ16:21-23

21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。

22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 確かに「御子の十字架の苦難」は、人間の倫理観や感情(たとえそれが善良なものであっても)によっては、理解することも受け入れることもできない、純粋に「神のこと」、神の本質にかかわること、だからである。

 黙示録13:8にも、関連する啓示がある。

 「世の初めから」が「屠られた子羊」を修飾するか、「その名の書きしるされていない者」に修飾するかで、翻訳がわかれている。ラテン語ウルガタ訳と英語のいくつかのバージョンは、「世の初めから屠られた子羊」と翻訳している。

(King James)

And all that dwell upon the earth shall worship him, whose names are not written in the book of life of the Lamb slain from the foundation of the world.

(Noah Webster Bible)

And all that dwell upon the earth shall worship him, whose names are not written in the book of life of the Lamb slain from the foundation of the world.

(Weymouth New Testament)

And all the inhabitants of the earth will be found to be worshipping him: every one whose name is not recorded in the Book of Life--the Book of the Lamb who has been offered in sacrifice ever since the creation of the world.

(Young's Literal Translation)

And bow before it shall all who are dwelling upon the land, whose names have not been written in the scroll of the life of the Lamb slain from the foundation of the world;

(Latin Vulgate)

et adorabunt eum omnes qui inhabitant terram quorum non sunt scripta nomina in libro vitae agni qui occisus est ab origine mundi

 日本語訳では、「世の初めから」が「その名の書きしるされていない」を修飾するニュアンスで翻訳されている。

(口語)

地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう。

(文語)

凡て地に住む者にて、其の名を屠られ給ひし羔羊の生命の書に、世の創より記されざる者は、これを拜せん。

(新改)

地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。

(新共同)

地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。

(岩波)

地上に住む者たち、すなわち、世界が創造された時から、屠られた小羊の命の書の中に名前の書き込まれていない者たちは皆、この獣を礼拝するようになる。

(前田)

地に住むものは皆彼を拝もう。彼らはすべて、世のはじめこのかた、その名がほふられた小羊のいのちの書にしるされていないものである。

(塚本)

かくて凡て地に住む者、宇宙開闢の時からその名を屠られた仔羊の生命の書に記されていなかった者は、彼を拝むであろう。

 確かに「世の初めから屠られた子羊」と訳すと、御子イエス・キリストの十字架の死が歴史において一度だけあったという事実に対して、誤解が生じる可能性が出てくる。しかしその歴史的出来事は、ある時偶発的に起きた事件ではなく、神の本質として永遠から存在し、イエスの死によって成就したのである。

 また「世の初めからその名の書きしるされていない者」と訳しても、その名が記されている書が、「屠られた子羊の命の書」とあるので、世の初めから御子の十字架の死(「屠られた子羊」)と復活(子羊の命)は、神の永遠の計画であったことが啓示されている。

 

(2)へ続く

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