an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

後のものを忘れ、前のものに向かって

ピリピ3:12-14

12 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。

13 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、

14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。

「ただ、この一事に励んでいます。」

「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている」と告白した詩篇記者のように(詩篇27:4)、御子イエスの足元に座って御言葉を聞くことだけを選んだマリアのように(ルカ10:39、42)、使徒パウロは成熟した一人の信仰者として「一つのこと」に専念していた。

後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ

forgetting those things which are behind,
reaching forth unto those things which are before

 ここでは動詞に再帰的なニュアンスが感じられ、使徒パウロが目標に到達しようとしている自分のために「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ」走っているイメージである。つまり使徒パウロ自身がコリント教会への書簡の中で書いたように、それは漠然とした「目標のはっきりしないような走り方」ではなく、目標のために「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ」という明確な意志の働きがある。

Ⅰコリント9:24-26

24 あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。

25 しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。

26 そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。

 それでは使徒パウロが「忘れる」と決めた「後ろにあるもの」とは何だったのだろうか。それは、彼自身が「肉の頼み」と呼んでいたものであり、自分の出生や宗教的正統性、民族的優越感、自分自身の正義であった。

ピリピ3:4-9

4 もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。

5 わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、

6 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。

7 しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。

8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、

9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。

 彼は自分にとって益であり、誇りであったそれらのことに背を向け、自分の前にある目標、つまり主イエス・キリストの故に、それらを「損」「糞土」と見做したのである。

 使徒パウロが、それらのことを「消滅した」「もう存在しない」とは言っていないことは興味深い。それは「忘れる」という動詞を使っていることにも暗示されている。「誇ろうと思えば確かに誇る要素が存在するが、敢えてそれを『損』『糞土』と見做しているのだ」という強烈な思いが書きしるされている。

 このキリストに対する強烈な思いは、使徒自身が感じていたジレンマにも表われている。

ピリピ1:20-23

20 そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。

21 わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。

22 しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。

23 わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。

 彼は「後ろにあるものを取りに戻るか、否か」とか「今の道とは違う道に行こうかどうか」と悩んではいなかった。言うなれば「今のペースでもう少し走るか、それとも最終スパートをするか」という選択を考えていたのである。

 私には使徒パウロのように自分の後ろに誇れるようなものが何もないにも関わらず、時に躊躇し、キョロキョロと注意散漫である現実を本当に恥ずかしく思う。ただそれでも、私の内から何とも言いようのない渇きというか、慕い願う思いが湧き上がってくるのは、御子が聖霊によって私の心を捕えてくださり、決して見離さないと約束してくださっているからだと信じる。

ピリピ3:12(新改訳)

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。 

ピリピ1:6

そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。