an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

新約聖書における家の教会

 新約聖書において記録されている「教会【ἐκκλησία ekklēsia】」は、決して物質的な建造物を意味しておらず、「神の恵みによってこの世から呼び出された信仰者の集まり」のことである。つまり「信仰者が集まって礼拝を捧げること」が重要なのであって、物理的な場所はどこであってもよかったのである。

 実際、ある地域の個人住宅において兄弟姉妹が集っていた証しが、いくつの書き記されている。

  • ローマの教会:天幕造りの職人夫婦であったプリスカとアクラの家において集っていた。

ローマ16:3-5

3 キリスト・イエスにあるわたしの同労者プリスカとアクラとに、よろしく言ってほしい。

4 彼らは、わたしのいのちを救うために、自分の首をさえ差し出してくれたのである。彼らに対しては、わたしだけではなく、異邦人のすべての教会も、感謝している。

5 また、彼らの家の教会にも、よろしく。わたしの愛するエパネトに、よろしく言ってほしい。彼は、キリストにささげられたアジヤの初穂である。 

  • コロサイの教会:小アジア(現在のトルコ)のコロサイでは、ピレモンの個人宅で集っていた。「家にある教会」であって「家が教会」ではないことに注意。

ピレモン1:1-2

1 キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する同労者ピレモン、

2 姉妹アピヤ、わたしたちの戦友アルキポ、ならびに、あなたの家にある教会へ。 

  • ラオデキヤの教会:コロサイの町から約17キロメートルの距離にある町ラオデキヤでは、ヌンパという信仰者の家で集っていた。アルキポ(コロサイのピレモンの息子ではなかったかと言われている)が「主にあって受けた務め」、おそらく長老として集まりの秩序を保つ責任が与えられていたと思われる。

コロサイ4:15-17

15 ラオデキヤの兄弟たちに、またヌンパとその家にある教会とに、よろしく。

16 この手紙があなたがたの所で朗読されたら、ラオデキヤの教会でも朗読されるように、取り計らってほしい。またラオデキヤからまわって来る手紙を、あなたがたも朗読してほしい。

17 アルキポに、「主にあって受けた務をよく果すように」と伝えてほしい。

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 ちなみにラオデキヤからリクス川を挟んで約10キロメートル離れたヒエラポリスにおいても信仰者が集っていたようである。

コロサイ4:13

わたしは、彼があなたがたのため、またラオデキヤとヒエラポリスの人々のために、ひじょうに心労していることを、証言する。 

 このように比較的近い距離にあった3つの町(コロサイ、ラオデキヤ、ヒエラポリス)でそれぞれ信仰者たちが集い、使徒パウロの手紙が共有されるなど、相互に親密な交わりがあったことが記されている。

  • エペソの教会:使徒パウロが第三次伝道旅行期間中、小アジアのエペソにおいて約三年間宣教活動していたが、そのときアクラとプリスカの個人宅で集っていたようである。

Ⅰコリント16:19

アジヤの諸教会から、あなたがたによろしく。アクラとプリスカとその家の教会から、主にあって心からよろしく。 

  使徒行伝19章によると、使徒パウロはエペソに行った時、最初の3か月はいつもの通りまずユダヤ人の会堂で伝道し、そのユダヤ人たちが福音を受け入れなかったので、今度はツラノの講堂(一種の学校だったと言われている)を借りて、そこで2年間毎日福音を伝えた。「アジヤに住んでいる者は、ユダヤ人もギリシヤ人も皆、主の言を聞いた」という記述から、相当の数の人々が小アジア各地から集まって、入れ代わり立ち代わり毎日の集会に参加していたことが想像できる。

使徒19:8-10

8 それから、パウロは会堂にはいって、三か月のあいだ、大胆に神の国について論じ、また勧めをした。

9 ところが、ある人たちは心をかたくなにして、信じようとせず、会衆の前でこの道をあしざまに言ったので、彼は弟子たちを引き連れて、その人たちから離れ、ツラノの講堂で毎日論じた。

10 それが二年間も続いたので、アジヤに住んでいる者は、ユダヤ人もギリシヤ人も皆、主の言を聞いた。 

 その後、使徒パウロがエルサレムに向かう途中、ミレトでエペソの教会の長老たちに会い、話をした内容から判断すると、ツラノの講堂における二年間の宣教活動の後、さらに9か月ほどエペソの町で宣教し続けたことがわかる。おそらくその期間、上述のアクラとプリスカの個人宅で信仰者たちが集まっていたのだと思われる。

使徒20:17;31

17 そこでパウロは、ミレトからエペソに使をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。

31 だから、目をさましていなさい。そして、わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい。  

 使徒パウロをはじめ、多くのユダヤ人キリスト者たちは、元々安息日に会堂に出向いて礼拝を捧げることに慣れていた。だから彼らが「自分たちが集まるための教会堂を立てよう」と考えても不思議ではなかっただろう。しかも会堂に集まっていたユダヤ教徒たちが嫉妬するほど多くの人々が集まっていたのである。「ユダヤ人の会堂よりも立派な教会堂を建てよう」と言い出す人々が、あるいはいたかもしれない。

 しかし上述の新約聖書の記録を読むと、使徒パウロたちがそのような建造物にこだわらず、状況に応じて柔軟に対応し、そして何よりも一番重要な点を優先して、キリストの福音を伝えるという使命のために非常に実践的な選択をしていたことがわかる。

 それは特定な場所や時期・時間に制限されることのない生ける神を賛美し、その御心に従う在り方に相応しいものではないかと思う。

ヨハネ4:21-24

21 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。

22 あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。

23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。

24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。

使徒7:48-50

48 しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っているとおりである、

49 『主が仰せられる、どんな家をわたしのために建てるのか。わたしのいこいの場所は、どれか。天はわたしの王座、地はわたしの足台である。

50 これは皆わたしの手が造ったものではないか』。 

 重要なことは「〇〇教会」と呼ばれる建造物において集うか、それとも「XX兄弟の個人宅」で集うかではない。どこにおいても決して目に見える要素に影響されることなく、キリストの御名において、キリストの栄光だけを求めて、聖霊の導きによって父なる神を礼拝を捧げることではないだろうか。

マタイ18:19-20

19 また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。

20 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。

ピリピ3:3

神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。

ユダ1:20-21

20 しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、

21 神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。