ユダヤ教改宗者の歴史についての考察
先日の『「アシュケナジ系ユダヤ人」の遺伝子調査に関する記事について』と『
カライ派ユダヤ人について』の記事に関連して、何点か興味深い点を追記しようと思う。
主イエス・キリストの地上宣教の時期に、ユダヤ人にとっては異邦人であるローマ軍の百卒長がイスラエルの神を信じ、シナゴーグの会堂を建てるほどの信仰をもっていたことが記述されている。
ルカ7:2-5
2 ところが、ある百卒長の頼みにしていた僕が、病気になって死にかかっていた。
3 この百卒長はイエスのことを聞いて、ユダヤ人の長老たちをイエスのところにつかわし、自分の僕を助けにきてくださるようにと、お願いした。
4 彼らはイエスのところにきて、熱心に願って言った、「あの人はそうしていただくねうちがございます。
5 わたしたちの国民を愛し、わたしたちのために会堂を建ててくれたのです」。
この百卒長がローマ帝国領内のどこの出身であったかは明記されていないが、少なくともイスラエルの神の証しをユダヤ人を通して知り、信仰を持っていた。
使徒行伝に登場するもう一人の百卒長コルネリオ(彼はイタリア出身だったようだ)も、同じように主イエス・キリストを信じる以前から、イスラエルの神を信じ、仕えていた。そして彼の部下の兵卒の中にも、コルネリオと同じように信仰を持っていた者がいた。
使徒10:1-2;7;22
1 さて、カイザリヤにコルネリオという名の人がいた。イタリヤ隊と呼ばれた部隊の百卒長で、
2 信心深く、家族一同と共に神を敬い、民に数々の施しをなし、絶えず神に祈をしていた。
7 このお告げをした御使が立ち去ったのち、コルネリオは、僕ふたりと、部下の中で信心深い兵卒ひとりとを呼び、
22 彼らは答えた、「正しい人で、神を敬い、ユダヤの全国民に好感を持たれている百卒長コルネリオが、あなたを家に招いてお話を伺うようにとのお告げを、聖なる御使から受けましたので、参りました」。
また主イエス・キリストが十字架に架けられることになる過ぎ越し祭の時期、数人のギリシャ人が巡礼のためにエルサレムにきていた。
ヨハネ12:20
祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシヤ人がいた。
使徒行伝8章の登場するエチオピア人の高官も、同じようにエルサレムの神殿において礼拝を捧げた後、自国に戻る道で伝道者ピリポに出会い、キリストの福音を信じたが、彼もコルネリオ同様、イスラエルの神を敬う異邦人に属していた。
使徒8:26-28
26 しかし、主の使がピリポにむかって言った、「立って南方に行き、エルサレムからガザへ下る道に出なさい」(このガザは、今は荒れはてている)。
27 そこで、彼は立って出かけた。すると、ちょうど、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財宝全部を管理していた宦官であるエチオピヤ人が、礼拝のためエルサレムに上り、
28 その帰途についていたところであった。彼は自分の馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
そして使徒パウロたちが小アジア(現在のトルコ)やギリシャの町々に福音宣教のために訪れた時、多くのシナゴーグで信心深い改宗者(προσήλυτος prosēlutos)や信心深い人(σέβομαι sebomai)、神を敬う人々(φοβέω phobeō)、ギリシャ人の貴婦人などが礼拝に参加していたことが記録されている。ピシデヤのアンテオケ(使徒13:14-43)、テサロニケ(使徒17:1-4)、アテネ(コリント(使徒18:4) などである。
またエルサレム教会において選出された7人の執事のうちの一人であるニコラオは、アンテオケ出身の異邦人でイスラエルの神を信じていた改宗者(προσήλυτος prosēlutos)で、その後主イエスを来るべき救い主だと信じたキリスト者であった(使徒6:5)。
このように西暦1世紀には、地中海沿岸を中心に多くの町々に離散していたユダヤ人たちがそれぞれの町で共同体を形成し、会堂において礼拝を捧げており、その礼拝には異邦人の改宗者や信心深い人々、神を敬う人が少なからず少なからず参加していたということになる。
特に今回のテーマである「アシュケナジ系ユダヤ人」のルーツではないかと言われているトルコ北東部、黒海沿岸のポント地方にも、ユダヤ人の共同体が存在しており、そこからエルサレムの巡礼に訪れていた人々がいたことが使徒行伝に記録されている。
使徒2:9-11
9 わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、
11 ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。
エペソやコリントにおいて使徒パウロの良き同労者となるアクラは、ポント地方生れのユダヤ人であった。アクラが故郷において主イエス・キリストを信じたのか、それとも移住先のローマだったのか、聖書は明らかにしていないが、少なくともアクラはポント地方にユダヤ人共同体が存在していたことを証している。
使徒18:2
そこで、アクラというポント生れのユダヤ人と、その妻プリスキラとに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるようにと、命令したため、彼らは近ごろイタリヤから出てきたのである。
また『ペテロの第一の手紙』によれば、手紙が書かれた時期(おそらく西暦62-64年頃には、ポント地方にキリスト教会があったことがわかる。
Ⅰペテロ1:1-2
1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち、
2 すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。
手紙の内容からするとポント地方の教会の信徒は異邦人が多かったと思われるが(Ⅰペテロ2:10参照)、当然他の町の教会と同様、ユダヤ人改宗者も少なくなかっただろう。
このように、紀元前8世紀のイスラエル十部族のアッシリア捕囚や紀元前6世紀のバビロニア捕囚、そしてローマ帝国の奴隷制度などによって、メソポタミア地方や地中海沿岸地方、黒海沿岸地方などに多くのイスラエル人やユダヤ人が離散していたが、彼らは各地で自分たちの信仰を守り、シナゴーグにおいて神の言を学び、礼拝を捧げていた。そして彼らのイスラエルの神に対する信仰は、各地の異邦人(アブラハムの血統を持たない人々)にも証され、改宗者や神を敬う人々を生み出していたのである。
そして主イエス・キリストの福音が各地に宣べ伝えられた時、多くのユダヤ人や改宗者がそれを受け入れ、救いを受けた。しかし反対に福音を拒否し、自分たちのユダヤ教の伝統に固執したユダヤ人たちや改宗者たちも当然いたわけである。
ポント地方の改宗者(つまり、ユダヤ教を信じた異邦人)の子孫が、8世紀のカライ派ユダヤ人の伝道によって聖書回帰運動の影響を受け、東ローマ帝国による追放によって黒海北岸に移住し、ハザール帝国のユダヤ教へ改宗に影響を与え、アシュケナジ系ユダヤ人の形成へ至った、というのが、おおざっぱな歴史的経緯だろうか。
勿論、様々な議論の余地があると思うが、歴史の点と点をつなぐ細い線が見えてこないだろうか。
ちなみに異邦人のユダヤ教改宗というテーマにおいて、西暦1世紀のアディアバネ王国のヘレナ女王の例(ユダヤ人商人の証しによってイスラエルの神を信じるようになったと言われている)などがあるので、ハザール王国の王族が西暦8世紀にユダヤ教に改宗したことは、その動機が何であれ、特別な例外ではないと言える。ちなみにヘレナ女王の王族は、ユダヤ戦争の際(西暦64-74年)、ユダヤを大いに援助したと、ユダヤ人歴史家ヨセフスは記録している。
アディアバネ王国の首都アルベラ(Arbela)は、現代のイラク領のモースルとキルクークの中間に位置するエルビル(Arbil)である。黒海沿岸までの距離は、約650Kmである(東京からほぼ広島までの距離)。
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