an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

安息日に関する考察(4)違反に対する処罰

出エジプト31:12-18

12 主はまたモーセに言われた、

13 「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。

14 それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。

15 六日のあいだは仕事をしなさい。七日目は全き休みの安息日で、主のために聖である。すべて安息日に仕事をする者は必ず殺されるであろう。

16 ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、永遠の契約として、代々安息日を守らなければならない。

17 これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、かつ、いこわれたからである』」。

18 主はシナイ山でモーセに語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち神が指をもって書かれた石の板をモーセに授けられた。

出エジプト35:1-3

1 モーセはイスラエルの人々の全会衆を集めて言った、「これは主が行えと命じられた言葉である。

2 六日の間は仕事をしなさい。七日目はあなたがたの聖日で、主の全き休みの安息日であるから、この日に仕事をする者はだれでも殺されなければならない。

3 安息日にはあなたがたのすまいのどこでも火をたいてはならない」。

 確かに安息日の命令の中には、その命令に背いた場合の処罰に関する命令も含まれている。

 「すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。」

「すべて安息日に仕事をする者は必ず殺されるであろう。」

「この日に仕事をする者はだれでも殺されなければならない。」

 何と峻厳な戒めだろうか。「全て」「必ず」「誰でも」という表現が、さらに妥協のない厳しさを強調している。

 さらに、年に一回の「贖罪の日」の安息日に関しては、いかなる仕事をしてはいけなかっただけでなく、「身を悩ます【עָנָה ‛ânâh】」(身に荒布をまとい、断食して過ごすことを意味していたと言われている。詩篇35:13参照)義務も課せられていた。

レビ記23:26-32

26 主はまたモーセに言われた、

27 「特にその七月の十日は贖罪の日である。あなたがたは聖会を開き、身を悩まし、主に火祭をささげなければならない。

28 その日には、どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのために、あなたがたの神、主の前にあがないをなすべき贖罪の日だからである。

29 すべてその日に身を悩まさない者は、民のうちから断たれるであろう。

30 またすべてその日にどのような仕事をしても、その人をわたしは民のうちから滅ぼし去るであろう。

31 あなたがたはどのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて、代々ながく守るべき定めである。

32 これはあなたがたの全き休みの安息日である。あなたがたは身を悩まさなければならない。またその月の九日の夕には、その夕から次の夕まで安息を守らなければならない」。

 勿論、この「身を悩まさなければいけなかった贖罪の日の安息日」は、その後に続く「仮庵の祭」における喜び(この喜びは、収穫の喜び以上に、エジプトの奴隷生活から解放され、自由な民とされた喜びを覚えるためであった)をより際立たせるものでもあった。

レビ記23:33

33 主はまたモーセに言われた、

34 「イスラエルの人々に言いなさい、『その七月の十五日は仮庵の祭である。七日の間、主の前にそれを守らなければならない。

35 初めの日に聖会を開かなければならない。どのような労働もしてはならない。

36 また七日の間、主に火祭をささげなければならない。八日目には聖会を開き、主に火祭をささげなければならない。これは聖会の日であるから、どのような労働もしてはならない。

37 これらは主の定めの祭であって、あなたがたがふれ示して聖会とし、主に火祭すなわち、燔祭、素祭、犠牲および灌祭を、そのささぐべき日にささげなければならない。

38 このほかに主の安息日があり、またほかに、あなたがたのささげ物があり、またほかに、あなたがたのもろもろの誓願の供え物があり、またそのほかに、あなたがたのもろもろの自発の供え物がある。これらは皆あなたがたが主にささげるものである。

39 あなたがたが、地の産物を集め終ったときは、七月の十五日から七日のあいだ、主の祭を守らなければならない。すなわち、初めの日にも安息をし、八日目にも安息をしなければならない。

40 初めの日に、美しい木の実と、なつめやしの枝と、茂った木の枝と、谷のはこやなぎの枝を取って、七日の間あなたがたの神、主の前に楽しまなければならない。

41 あなたがたは年に七日の間、主にこの祭を守らなければならない。これはあなたがたの代々ながく守るべき定めであって、七月にこれを守らなければならない。

42 あなたがたは七日の間、仮庵に住み、イスラエルで生れた者はみな仮庵に住まなければならない。

43 これはわたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせた事を、あなたがたの代々の子孫に知らせるためである。わたしはあなたがたの神、主である』」。

44 モーセは主の定めの祭をイスラエルの人々に告げた。 

 いずれにせよ、贖罪の日の安息日に関しても、その戒めを守らなかった者に対する処罰(「民のうちから断たれるであろう。」「その人をわたしは民のうちから滅ぼし去るであろう。」)が、明確に記されている。

 そしてその処罰は、単なる脅しではなかったことも、荒野を彷徨っていたイスラエルの民の歴史が示している。

民数記15:32-36

32 イスラエルの人々が荒野におるとき、安息日にひとりの人が、たきぎを集めるのを見た。

33 そのたきぎを集めるのを見た人々は、その人をモーセとアロン、および全会衆のもとに連れてきたが、

34 どう取り扱うべきか、まだ示しを受けていなかったので、彼を閉じ込めておいた。

35 そのとき、主はモーセに言われた、「その人は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で撃ち殺さなければならない」。

36 そこで、全会衆は彼を宿営の外に連れ出し、彼を石で撃ち殺し、主がモーセに命じられたようにした。 

  しかし主なる神は、安息日の命令に背いた民に対して、いつでもこのような直接的な裁きを下していたわけではなかった。(もし神が、安息日の戒めだけでなく、律法の全ての戒めに対してそのような厳格な対応をしていたら、イスラエルの民は完全に滅ぼされていただろう。なぜなら、誰一人として律法を完全に守れる人間などいないのだから。) それは、御子イエス・キリストによる贖罪の計画を備えていたからであった。

ローマ3:21-26

21 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。

22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。

23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、

24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。

25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、

26 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。 

 御子は「主なる神がご自身を信じる者を聖別する主であること」を示し、神の義を示すために、安息日の戒律を背いた者の処罰さえも背負い、「民のうちから断たれ」、十字架の呪いの死を通られたのである。

 私は新約聖書の教えに従い、キリスト者がある一日、もしくはある時間を特別に選び、普段の仕事や雑務、娯楽などから一旦離れて、自分が受けるべきであった律法の裁きを背負ってくださった御子イエスの御名を通して、感謝の礼拝のためにその日をその他の日よりも聖別しようとする選択に関して、心から賛同する。その日が現代のカレンダーに従った土曜日であっても、他の曜日であっても同じである。

ローマ14:5-6

5 また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。

6 日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する。 

 しかしその選択において、「自分は安息日の尊守している」という自負心から生れる自己義によって、自分が「安息日を守っていない」と判断する人々の裁きを語り始めるなら、完全に本末転倒だと考える。ユダヤ教の慣習に従って現代の土曜日を「安息日」として聖別するならば、その日は自分の義を立て、隣人を裁くために費やすのではなく、安息日の戒めを含め律法のあらゆる戒めを守ることができない自分の罪を認め、その罪のために十字架の死によって民から断たれた御子の死と復活に感謝し、その御子によって立てられた神の義を聖別するために費やすべきではないだろうか。

 御子の十字架だけを誇る心には、唯一の義なる神との交わりによる「魂の休息と祝福」が宿るのである。

 

(5)へ続く