2.「第七日目」
創世記2:1-3
1 こうして天と地と、その万象とが完成した。
2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
この「第七日」は非常に明確な基準をもっていて、主なる神が天地創造をはじめた時点から数えて「第七日」という意味である。つまり、日数を数える基準が「天地創造のはじまり」なのである。
この「天地創造のはじまり」を基準にした「第七日目」が、現代の世界において使用されているグレゴリオ暦(ローマ教皇グレゴリウス13世によって1582年2月24日に制定された、太陽暦によるカレンダー)による土曜日に一致すると考える説には、それを証明するだけの歴史的・聖書的根拠は存在せず、それはあくまで便宜的なものである。つまり現在一般的に使われているグレゴリオ暦を基準に、土曜日(正確には金曜日の日没から土曜日の日没まで)を「安息日」とし、それに「天地創造の第七日目」という神学的要素を後付けしているわけである。
またモーセの律法による「安息日」が、「天地創造の第七日目」に準じているかという確証もない。なぜなら律法によって定められた「安息日」は、イスラエルの民をエジプトの奴隷生活から解放する働きという枠組みの中で、特に過ぎ越しの日を根拠にしており、その時に定められたカレンダーのはじまりを基準に数えられているからである。
出エジプト12:1-3;14-20
1 主はエジプトの国で、モーセとアロンに告げて言われた、
2 「この月をあなたがたの初めの月とし、これを年の正月としなさい。
3 あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない。
14 この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない。
15 七日の間あなたがたは種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に家からパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までに、種を入れたパンを食べる人はみなイスラエルから断たれるであろう。
16 かつ、あなたがたは第一日に聖会を、また第七日に聖会を開かなければならない。これらの日には、なんの仕事もしてはならない。ただ、おのおのの食べものだけは作ることができる。
17 あなたがたは、種入れぬパンの祭を守らなければならない。ちょうど、この日、わたしがあなたがたの軍勢をエジプトの国から導き出したからである。それゆえ、あなたがたは代々、永久の定めとして、その日を守らなければならない。
18 正月に、その月の十四日の夕方に、あなたがたは種入れぬパンを食べ、その月の二十一日の夕方まで続けなければならない。
19 七日の間、家にパン種を置いてはならない。種を入れたものを食べる者は、寄留の他国人であれ、国に生れた者であれ、すべて、イスラエルの会衆から断たれるであろう。
20 あなたがたは種を入れたものは何も食べてはならない。すべてあなたがたのすまいにおいて種入れぬパンを食べなければならない』」。
モーセを通してイスラエルの民に与えられた十戒の中の安息日に関する命令を読むと、「安息日」の根拠として「天地創造の第七日目の安息」が記述されている。
出エジプト20:8-11
8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。
9 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。
10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。
11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。
出エジプト31:12-17
12 主はまたモーセに言われた、
13 「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。
14 それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。
15 六日のあいだは仕事をしなさい。七日目は全き休みの安息日で、主のために聖である。すべて安息日に仕事をする者は必ず殺されるであろう。
16 ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、永遠の契約として、代々安息日を守らなければならない。
17 これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、かつ、いこわれたからである』」。
主なる神が六日間のうちに天地創造のわざを全て終え、第七日目に休まれたように、イスラエルの民に属する者も家畜も、その領地に寄留する外国人も、六日間の労働の後、第七日目に休息をとるように命じられている。
勿論、ここで書かれている根拠は、「休息」という本質的な要素についてであって、「天地創造の第七日目」が「エジプトの奴隷生活から解放されたイスラエルの民に与えられた新しい暦に基づく安息日」と暦上、一致しているという根拠ではない。
つまり、「天地創造の第七日目」が、人類の歴史上、正確に七日毎に受け継がれ、モーセの律法によって成文化し、バビロニア捕囚やローマ軍によるエルサレム陥落、離散を通り、太陽暦であるユリウス暦やグレゴリオ暦においても、全くズレることなく、現代の土曜日が「天地創造の第七日目」に対応していると考えるのは、全く根拠のない主張である。
だから大事なことはその本質、つまり「魂の安息」であり「聖別された神との交わり」そしてそれに伴う「祝福」である。これらの永遠の賜物は、時間や空間に制限されたり、変化したりするものではなく、聖霊によって、御子イエス・キリストのうちに完全に与えられるものである。
マタイ28:10b
見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。
へブル13:8
イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。
ヤコブ1:17
あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。
ヨハネ4:24
神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。
へブル10:19-22
19 兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、
20 彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、
21 さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、
22 心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。
そう、私たちは肉体において地上にいるが、霊においては天の聖所の中で大祭司イエス・キリストに従って、生ける神に仕えているのである。大祭司アロンの子孫が安息日であっても聖所の中で神に仕えていたのは、その予型であり、影である。
追記(2017年5月23日)
安息日を尊守を主張する立場の人々の中には、「私たちが守っているのは『天地創造の第七日目の休息』であって、『律法に基づく安息日』ではない」と主張する人がいる。しかしそれは単なる詭弁である。なぜなら「律法に基づく安息日」自体が、「天地創造の第七日目の休息」を根拠にしていたからである。
出エジプト20:8-11
8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。
9 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。
10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。
11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。
出エジプト31:17
17 これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、かつ、いこわれたからである』」。
だから「神が第七日目に休息されたのだから、信仰者も土曜日を安息日としなければいけない」という主張は、本質的にモーセの律法が命じている安息日の戒めと同じであり、上述の「私たちが守っているのは『天地創造の第七日目の休息』であって、『律法に基づく安息日』ではない」という主張は実質に欠けるものである。