an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

バラクもエフタもいる

へブル11:32-34

32 このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。

33 彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、

34 火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。 

 『第一コリント』の13章が「愛の章」として知られているように、『へブルびとへの手紙』の11章は「信仰の章」として、信仰の定義から始まり、旧約聖書の中に記されている「信仰に生きた神の証人たち」の名を数多くの挙げている。

 アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデなどは非常に知られている名前であり、聖書を読んだことがない方でも、一度はどこかで聞いたことがあるかもしれないが、バラクとかエフタという名前を読んで、どのような人物であるか即座に説明できる人は、聖書を長年読んでいる信仰者であっても、それほど多くはいないのではないだろうか。

 バラクもエフタも、イスラエルの民が約束の地を占領し、安住し始めてからしばらく経った時代の人物で、『士師記』の中に登場する。バラクは士師記の4章と5章に、エフタは11章と12章に記されているので、実際に聖書で確認していただけるが、この二人の人生は、「信仰に生きた勇者」と定義するにはちょっと躊躇してしまうようなものではないだろうか。

 いや、もし神の霊感によらず、私たちの倫理的・知的基準で『へブルびとへの手紙』の11章を書いていたとしたら、決してバラクやエフタの名前をリストの中には入れなかったのではないかと思う。サムソンの名など、頭の片隅にも浮かばなかっただろう。おそらく彼らの名前を書く代わりに、「預言者たち」の具体的な名前、例えばエレミヤやハバクク(新約聖書において「義人は信仰によって生きる」というハバククの言葉が何度引用されているか確認してみてほしい)の名前を書き記したことであろう。

 同じ「とまどい」は以下の聖句についても言えるのではないだろうか。

Ⅱペテロ2:6-7

6 また、ソドムとゴモラの町々を灰に帰せしめて破滅に処し、不信仰に走ろうとする人々の見せしめとし、

7 ただ、非道の者どもの放縦な行いによってなやまされていた義人ロトだけを救い出された。 

 私たちが筆者の立場で『創世記』に書き記されているロトの人物像と生涯を解釈していたら、果たして「義人」という表現をロトに適用しただろうか。

 これらのことは、私たちが聖書を読み、それを解釈しようとするとき、恵みの霊、つまり聖霊によってのみ真意を読み取ることができるということを教示している。なぜなら、私たちの理知的判断や倫理的基準は、たとえそれらが学問的に正確で倫理的に崇高であっても、神の思いと一致しているとは限らないからである。

 その最も顕著な例は、聖書全体の中心的メッセージである「十字架の言」であり、「隠された奥義としての神の知恵」であるキリストである。

Ⅰコリント1:18-25

18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。

19 すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。

20 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。

21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。

22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。

23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、

24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。

25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。

Ⅰコリント2:6-13

6 しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。

7 むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。

8 この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。

9 しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。

10 そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。

11 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。

12 ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。

13 この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。