Ⅰコリント6:9-11
9 それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、
10 貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。
11 あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。
『ティモシー・ケラー牧師の同性愛に関する偽りの教え』の記事において、この聖句がコリント教会の信徒たちに対して語られた警告であると書いた。彼らの中には、信仰を持つ以前、「不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者」がいたが、主イエス・キリストの名によって、また神の霊によって、心を洗われ、清められ、神の前に義とされたのであった。
しかし注意して読むと、主イエス・キリストの名によって「義とされた δικαιόω
dikaioō」としても、「不義なる者たち ἄδικοι adikoi」は神の国を継ぐことはない、と警告しているのである。つまり信仰によって神から罪の赦しを受けたとしても、その罪から離れずに犯し続けるなら、永遠の滅びへ至ると啓示しているのである。
聖書に啓示されている福音を通して、「主イエス・キリストの名によって、また神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされた」信仰者であっても、ティモシー・ケラー牧師のように同性愛を擁護し、それに対する裁きを否定する人々は少なくない。しかし彼らは、冒頭の列挙されているカテゴリーの中で、例えば自分たちの教会員のなかで「強盗を繰り返す信徒」や「酔っぱらって家庭内暴力を繰り返す信徒」がいたとしたら、どのような態度をとるだろうか。「自分たちの妻と不倫を繰り返し、教会内の多くの家庭を破壊している信徒」がいたら、「大丈夫、それは罪ではないし、永遠の裁きを受けることない」と言えるだろうか。同じ教会の中でペドフィリア性向者が自分の娘・息子をいたずらしていたら、黙ってみているのだろうか。それとも、カトリック教会の聖職者のスキャンダルの時のように、公に声を上げ、断罪するのだろうか。なぜ「不品行な者、姦淫をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、略奪する者」に対しては厳格な態度をとるのに、「男色をする者」に対しては「罪ではないし、地獄へは行くことは決してない」と言って、態度を変えるのだろうか。
繰り返すが、冒頭の聖句は信仰を持たない人々ではなく、信仰者に対して警告している。「主イエス・キリストの名によって、また神の霊によって、心を洗われ、清められ、神の前に義とされる」という恩恵を受けたがゆえに、その主の御名に対して大きな責務をもつ人々である。そしてその責務は、御言葉を自分の都合に合わせて変える権利を与えてはいないはずである。
真の問題は、「同性愛」という鏡に映し出されている私たちの信仰の在り方ではないだろうか。
ローマ6:1-2
1 では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。
2 断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。
Ⅱペテロ2:18-22
18 彼らはむなしい誇を語り、迷いの中に生きている人々の間から、かろうじてのがれてきた者たちを、肉欲と色情とによって誘惑し、
19 この人々に自由を与えると約束しながら、彼ら自身は滅亡の奴隷になっている。おおよそ、人は征服者の奴隷となるものである。
20 彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。
21 義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。
22 ことわざに、「犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、どろの中にころがって行く」とあるが、彼らの身に起ったことは、そのとおりである。
ユダ1:4
そのわけは、不信仰な人々がしのび込んできて、わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の君であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからである。彼らは、このようなさばきを受けることに、昔から予告されているのである。