an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

『ローマびとへの手紙』(8)わたしは福音を恥としない

ローマ1:14-17

14 わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。

15 そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。

16 わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。

17 神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。 

 パウロは神の恵みを受けた一人の罪びととして、「ギリシャ人」や「未開の人(βάρβαρος barbaros ギリシャ人ではない人々)」、「賢い者」や「無知な者」という人間的な差異を超えて、福音を宣べ伝える義務を感じていた。それは、すべて信じる者に働きかけ、救いを与える福音の力、ユダヤ人と異邦人との間にあった越え難い壁すらも打ち壊す、圧倒的な力を個人的に知っていたからであった。

 大学入試は、学生の努力の結果によって、合格・不合格が決まる。しかし、魂の救いは人間の努力を土台にしていない。聖書の知識をより正確に、より多く蓄積した者から先に救われていく、というものではない。どのような人種・文化・社会的地位に属していようが、心からイエス・キリストの十字架による罪の赦しを信じ、悔い改めて神の元へ行くのなら、誰でも魂の救いを得ることができるのである。

 人殺しの罪で捕まり、裁判で訴えられている被告人は、牢獄の中で一生懸命『六法全書』を学んだ。判決の日に裁判官の前に立った被告は言った。「裁判官、私は牢獄の中で何年もかけて『六法全書』をよく学び、傍聴席にいる人々よりも、否、この場にいる検察官や弁護士よりも正確な知識を獲得しました。つきましては、その努力と知識を正当に評価していただき、無罪の判決をよろしくお願いいたします。」

 ばかばかしい例だと思えるだろう。だが現実には、決して少なくない人たちが、キリストの福音の本質を受け入れず、自分が得たと思っている知識によって罪が赦される、つまり自分が正しいとされるかのような振る舞いをしているのである。

ローマ10:1-3

1 兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。

2 わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。

3 なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。 

 「二千年前に十字架の上で死んだ男が復活して、私のことを罪を赦してくれる?それをただ信じたら救われる?何それ?単純過ぎない?」

 確かに自分の本質から目を逸らす者には、十字架の福音は愚かに映る。彼の「有り余る知識」と比較すると、恥ずかしいほど単純である。しかし、その十字架のことばの力を実体験した者にとっては、まさに「神の力」であり、「神の知恵」なのである。だからこそ旧約聖書を精通し、ギリシャ哲学にも通じていたパウロでも、「わたしは福音を恥としない」と宣言したのである。

Ⅰコリント1:18-24

18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。

19 すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。

20 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。

21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。

22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。

23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、

24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。