創世記2:8-9;15-17
8 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。
9 また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。
15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。
16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。
17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
前回の記事において、誘惑に対して無防備なアダムの目の前に善悪を知る木を置き、「この木からは取って食べてはならない」という唯一の否定命令を下すのは、一見、不当に思えるということを書いた。しかしよく考えてみれば、もしその唯一の「してはいけないこと」がなかったとしら、そしてすべてを心のままに行うことができ、すべての木から好きなものを好きな時に好きなだけ食べることができ、すっとそうやって生き続けるのであったとしたら、現状の私たちには想像することは難しいことだが、自分の存在や行動、そして自由の意味さえ希薄になってしまうのではないだろうか。つまり心のままに何でもしていいのなら、それをしてもしなくても本質的に何も変わらないのではないか。そうすると、本人の意志によって選択する意味も限りなく無に等しいものとならないだろうか。
しかしそこに一つの否定命令が課されることによって、対比が生れ、与えられた自由に対する自覚が目を覚ますのである(この領域は、さらに哲学的なアプローチで展開できると思うが、意図することとずれてくるので控えたい)。よって否定命令自体は悪ではなく、善なる神が備えた善なるもので、悪はその戒めを背くことにあるのである。
そしてエバは蛇の誘惑を受け、主なる神が課していた唯一の否定命令に背き、アダムと共に禁じられていた木の実を食べ、罪を犯した。主なる神はそれを望んでいたのだろうか。否、そうではない。主なる神はしかし、全てを知っておられた。だからこそ、罪を犯したアダムとエバに御子による贖いの計画を啓示し、動物の皮で彼らの裸の恥を覆ったのである。
創世記3:15;21
15 わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。
21 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。
神の僕モーセを通して十戒を中心とした律法がイスラエルの民に与えられたが、その律法に関する定義と目的は、新約聖書において数多く啓示されている。
ローマ3:19-20
19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。
20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
ローマ4:15
いったい、律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはない。
ローマ5:13
というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。
ローマ5:20
律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた
ローマ7:7-13
7 それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。
8 しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。
9 わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、
10 わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。
11 なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。
12 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。
13 では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。
ガラテヤ3:19;23-24
19 それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。
23 しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。
24 このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。
Ⅰテモテ1:8-10
8 わたしたちが知っているとおり、律法なるものは、法に従って用いるなら、良いものである。
9 すなわち、律法は正しい人のために定められたのではなく、不法な者と法に服さない者、不信心な者と罪ある者、神聖を汚す者と俗悪な者、父を殺す者と母を殺す者、人を殺す者、
10 不品行な者、男色をする者、誘かいする者、偽る者、偽り誓う者、そのほか健全な教にもとることがあれば、そのために定められていることを認むべきである。
Ⅰヨハネ3:4(新改訳)
罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。
ヤコブ2:10-11
10 なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。
11 たとえば、「姦淫するな」と言われたかたは、また「殺すな」とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。
神が聖であり義であるように、神の律法、つまり聖なる神が人間に求めているものは、聖であり正しく、善いものである。それは以下の聖句によって要約されていると言える。
レビ記19:2
イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。
上に引用した新約聖書の聖句のうち、特に使徒パウロの言葉は十戒の十番目の戒めを引用しているので、律法の否定命令の働きを考察する上で有益である。
律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。
すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。
つまりこの否定命令「むさぼるな」は、心の中に眠っている(パウロは「死んでいる」という表現を使っている)、または隠れているあらゆる貪欲に光を当て、どこまでも追い詰める働きをするのである。
ある人はここでこう言うかもしれない。「なぜ、眠っている獣を起こすようなことをするのだ。そっとしておけばいいではないか。」「かたちのないものは、そのまま曖昧にしておけばいいではないか。」
しかし私たちの心のうちで今眠っていようとも、罪はやがて必ず実を結び、そして死をもたらす。人の心を知る神にはすべてが明らかなのである。
エレミヤ17:9-10
9 心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。
10 「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。
ヤコブ1:14-15
14 人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。
15 欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。
ローマ6:23a
罪の支払う報酬は死である。
アダムが神の命令に背き罪を犯したことで、罪がこの世に入り、その罪のゆえ死が支配するに至った。律法はそれを明らかにするため、そしてその罪と死の支配から解放する神の恵みの到来に備えて与えられたのである。
ローマ5:12-14;20
12 このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。
13 というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。
14 しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。
20 律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。
十戒のそれぞれ戒めに対して、それを背いた場合の断罪、しかも死罪が啓示されているのは、そのためである。
1.あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
出エジ22:20
主のほか、他の神々に犠牲をささげる者は、断ち滅ぼされなければならない。
申命記6:13-15
13 あなたの神、主を恐れてこれに仕え、その名をさして誓わなければならない。
14 あなたがたは他の神々すなわち周囲の民の神々に従ってはならない。
15 あなたのうちにおられるあなたの神、主はねたむ神であるから、おそらく、あなたに向かって怒りを発し、地のおもてからあなたを滅ぼし去られるであろう。
2.あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。
申命記27:15
『工人の手の作である刻んだ像、または鋳た像は、主が憎まれるものであるから、それを造って、ひそかに安置する者はのろわれる』。民は、みな答えてアァメンと言わなければならない。
3.あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。
レビ記24:15-16
15 あなたはまたイスラエルの人々に言いなさい、『だれでも、その神をのろう者は、その罪を負わなければならない。
16 主の名を汚す者は必ず殺されるであろう。全会衆は必ず彼を石で撃たなければならない。他国の者でも、この国に生れた者でも、主の名を汚すときは殺されなければならない。
4.安息日を覚えて、これを聖とせよ。
民数記15:32-36
32 イスラエルの人々が荒野におるとき、安息日にひとりの人が、たきぎを集めるのを見た。
33 そのたきぎを集めるのを見た人々は、その人をモーセとアロン、および全会衆のもとに連れてきたが、
34 どう取り扱うべきか、まだ示しを受けていなかったので、彼を閉じ込めておいた。
35 そのとき、主はモーセに言われた、「その人は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で撃ち殺さなければならない」。
36 そこで、全会衆は彼を宿営の外に連れ出し、彼を石で撃ち殺し、主がモーセに命じられたようにした。
5.あなたの父と母を敬え。
出エジ21:15;17
15 自分の父または母を撃つ者は、必ず殺されなければならない。
17 自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。
レビ記20:9
だれでも父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。彼が父または母をのろったので、その血は彼に帰するであろう。
6.あなたは殺してはならない。
出エジ21:12
人を撃って死なせた者は、必ず殺されなければならない。
7.あなたは姦淫してはならない。
レビ記20:10
人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者があれば、その姦夫、姦婦は共に必ず殺されなければならない。
8.あなたは盗んではならない。
出エジ21:16
人をかどわかした者は、これを売っていても、なお彼の手にあっても、必ず殺されなければならない。
申命記24:7
イスラエルの人々のうちの同胞のひとりをかどわかして、これを奴隷のようにあしらい、またはこれを売る者を見つけたならば、そのかどわかした者を殺して、あなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。
(これは誘拐、そして人身売買の例である)
9.あなたは隣人について、偽証してはならない。
申命記19:15-19
15 どんな不正であれ、どんなとがであれ、すべて人の犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない。
16 もし悪意のある証人が起って、人に対して悪い証言をすることがあれば、
17 その相争うふたりの者は主の前に行って、その時の祭司と裁判人の前に立たなければならない。
18 その時、裁判人は詳細にそれを調べなければならない。そしてその証人がもし偽りの証人であって、兄弟にむかって偽りの証言をした者であるならば、
19 あなたがたは彼が兄弟にしようとしたことを彼に行い、こうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。
10.あなたは隣人の家をむさぼってはならない。
興味深いことに、この戒めに関しては直接的な断罪を示す言葉が律法の中にない(もしかしたら私が知らないだけかも知らないが)。しかしそもそもこの「むさぼる」というのは、外面的な「行為・行動」だけでなく、「心の中の欲望」や「頭に浮かぶ思考」に関する戒めである。つまり律法は、実際に行動を起こす前の段階の内的悪まで光を当てるのである。
これは主イエスの教えでも確認できる。
マタイ5:27-28
27 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
28 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
マタイ15:16-20
16 イエスは言われた、「あなたがたも、まだわからないのか。
17 口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。
18 しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。
19 というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、
20 これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」。
このように、律法は神の意志であると同時に、神の断罪でもあり、その究極は律法の呪い、そして死である。神は死の支配が人間の心に宿る罪の報酬であり、その罪の性質を徹底的に知らしめるために律法を備えたのである。
そして時が満ち、御子イエスを律法の下に遣わし、罪びとの身代わりとなって律法の呪いである十字架の死を通して、信じる者の赦しと救いをもたらす神の恵み、永遠の命を啓示されたのである。
ガラテヤ3:10-14
10 いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。
11 そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。
12 律法は信仰に基いているものではない。かえって、「律法を行う者は律法によって生きる」のである。
13 キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。
14 それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。
ローマ5:20-21
20 律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。
21 それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。