an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

律法の否定命令に関する省察(1)

出エジプト19:25;20:1-17

25 モーセは民の所に下って行って彼らに告げた。

1 神はこのすべての言葉を語って言われた。

2 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。

3 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。

4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。

5 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、

6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

7 あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。

8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。

9 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。

10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。

11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。

12 あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。

13 あなたは殺してはならない。

14 あなたは姦淫してはならない。

15 あなたは盗んではならない。

16 あなたは隣人について、偽証してはならない。

17 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。

 これはエジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルの民が、シナイ山の麓において聞いた戒めの言葉で、一般的に「モーセの十戒」と呼ばれているものである。

  1. あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
  2. あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。
  3. あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。
  4. 安息日を覚えて、これを聖とせよ。
  5. あなたの父と母を敬え。
  6. あなたは殺してはならない。
  7. あなたは姦淫してはならない。
  8. あなたは盗んではならない。
  9. あなたは隣人について、偽証してはならない。
  10. あなたは隣人の家をむさぼってはならない。

 今回改めて考えさせられた点が、第4戒「安息日を覚えて、これを聖とせよ」と第5戒「あなたの父と母を敬え。」以外は、全て否定形の命令「~してはならない」であることである。しかも第4戒も、その中で「なんのわざをもしてはならない」とあるので、肯定形の命令は厳密に言えば第5戒だけであることになる。

 神の律法の核であり、基礎である十戒の九割が否定命令によって構成されているのは、非常に意味深いことではないだろうか。肯定命令「~しなさい」と否定命令「~してはならない」の違いは、特に受け取る側の心理的作用を考えると決して小さくない。例えば、「廊下では歩きなさい」と命じるのと「廊下では走ってはならない」と命じるのでは、その要求することは同じであっても、命令を受ける側に与えるニュアンスは異なる。「歩きなさい」においては「廊下を歩く以上のスピードで移動することはできない」ことは暗示的であるが、「走ってはならない」は「廊下を歩くという必然的行動以上のスピードで移動する潜在的可能性を全面的に否定すること」を意味し、直接的である。

 しかも原文においては、日本語の文法上否定形が文尾の変化によるのとは対照的に、肯定・否定の違いが文頭における否定語の有無によるので、その否定命令のニュアンスはより強く、ダイレクトである。

 なぜ主なる神はこのような否定命令の戒めを選んだのだろうか。この点を考察するには、やはりまず原点であるエデンの園に帰る必要があるだろう。

創世記2:16-17

16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。

17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。 

 主なる神はエデンの園においてあらゆる自由をアダムに対して与えていたが、唯一「善悪を知る木からは取って食べてはならない」という否定命令を与えた。想像してみてほしい。アダムは園の中央にある一本の木、自分の目の前にある善悪を知る木から「だけ」は実を取って食べてはならない、と命じられていたのである。

 「取って食べてはならない」と命じられたら「取って食べたとしたら」と想像してしまうのは、想像力という知性を持ち合わせた人間には自然な反応ではないだろうか。そしてアダムは神の戒めを背いた場合の罰である「死」が何を意味するか、この時点で全く知らなかったのである。

 近視眼的な解釈をすれば、主なる神がこのような環境においてアダムに否定命令を下したのは不当だと思えるだろう。しかしこのエデンの啓示は、「律法の目的」と「御子キリストの義」という真理の啓示によってのみ、主なる神の真意が見出せるのである。

 

(2)へ続く