ミンヤンと「二人または三人」の集まり
ユダヤ教においてミンヤンという教えがある。公の祈りが神の前に聞かれるためには、最低10名のユダヤ人の成人男性(13歳以上)がいなければいけない、という教えである。
『タルムード』にその教えの根拠がある。
Sanhedrin 74b
Even to change one's shoe strap. And how many make it public? — R. Jacob said in R. Johanan's name: The minimum for publicity is ten.
Megillah 23b-12
またアブラハムがソドムの町の義人の救いのために執り成しの祈りを捧げたとき、50人の義人から始めて、最後10人で執り成しが終わったことから、一つの町に少なくとも義人が10人いなければいけない、という解釈を根拠にしている。
創世記18:32-33
32 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します、もしそこに十人いたら」。主は言われた、「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう」。
33 主はアブラハムと語り終り、去って行かれた。アブラハムは自分の所に帰った。
またモーセが約束の地を偵察するために送り出した12人の族長のうち、ヨシュアとカレブを除いた10人の族長を根拠にしている。
民数記13:1-16
1 主はモーセに言われた、
2 「人をつかわして、わたしがイスラエルの人々に与えるカナンの地を探らせなさい。すなわち、その父祖の部族ごとに、すべて彼らのうちのつかさたる者ひとりずつをつかわしなさい」。
3 モーセは主の命にしたがって、パランの荒野から彼らをつかわした。その人々はみなイスラエルの人々のかしらたちであった。
4 彼らの名は次のとおりである。ルベンの部族ではザックルの子シャンマ、
5 シメオンの部族ではホリの子シャパテ、
6 ユダの部族ではエフンネの子カレブ、
7 イッサカルの部族ではヨセフの子イガル、
8 エフライムの部族ではヌンの子ホセア、
9 ベニヤミンの部族ではラフの子パルテ、
10 ゼブルンの部族ではソデの子ガデエル、
11 ヨセフの部族すなわち、マナセの部族ではスシの子ガデ、
12 ダンの部族ではゲマリの子アンミエル、
13 アセルの部族ではミカエルの子セトル、
14 ナフタリの部族ではワフシの子ナヘビ、
15 ガドの部族ではマキの子ギウエル。
16 以上はモーセがその地を探らせるためにつかわした人々の名である。そしてモーセはヌンの子ホセアをヨシュアと名づけた。
しかしヨシュアとカレブを除いたその10人のグループは、約束の地の豊かさを自分たちの目で見たにもかかわらず、その地を悪く民に言いふらし、その不信仰な言葉に釣られて民も神とその僕モーセに反発したのだから、なぜその10人のグループをミンヤンの教えの根拠とするのか、私には理解できない。またアブラハムの執り成しの祈りを根拠にするのも、こじつけのように思える。タルムードの中には多くのラビによるこのようなトーラーの強引な解釈が少なくないので、注意が必要である。
とにかくこのミンヤンの教えを基に、最低10人のユダヤ人男性がいなければ、シナゴーグは開設することができないということである。これはあくまで私の個人的な仮説だが、使徒パウロ一行が、神の幻によってピリピの町へ宣教に行った時、安息日にシナゴーグ(会堂)ではなく、川の近くの祈りの場を探しにいったのは、何かしらの理由でその町にユダヤ人の男性がミンヤンの人数おらず、公のシナゴーグが存在しなかったからではないかと思われる。使徒パウロがその後訪れたテサロニケやベレヤの町には会堂があったことを考慮すると、ローマの植民都市としてマケドニア地方で最も重要な町であったピリピに会堂がなかったのは、とても奇妙である。
使徒16:12-14
12 そこからピリピへ行った。これはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。わたしたちは、この町に数日間滞在した。
13 ある安息日に、わたしたちは町の門を出て、祈り場があると思って、川のほとりに行った。そして、そこにすわり、集まってきた婦人たちに話をした。
14 ところが、テアテラ市の紫布の商人で、神を敬うルデヤという婦人が聞いていた。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた。
クラウディオ皇帝がローマからユダヤ人を追放する勅令を出した(使徒18:2参照 西暦41年あるいは49年と言われいる。)ことが、ローマの植民都市ピリピにも何かしら影響を与えたのかもしれない。
いずれにせよ、ルデヤと他の婦人たちは安息日に会堂で礼拝をすることができず、町はずれの川沿いに集まっていたのである。
このミンヤンの教えを考えるとき、主イエス・キリストの言葉が如何に革新的で恵みに満ちているか感動するのである。
マタイ18:19-20
19 また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。
20 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。
「二人または三人」である。しかも性別の指定もない。つまり例えば一つの家庭で、信仰者である夫婦が、心を合わせて主イエスの御名によって祈るなら、主の臨在が約束され、その祈りは天の父なる神に届くと約束されているのである。
特定の町や特別な建造物において集まる必要もない。どこでも「二人または三人」が主の御名で集まるならば、「霊と真理によって」父なる神に礼拝を捧げることできるのである。否、むしろ父なる神はそのような礼拝者を求めておられる、とまで書かれている。
ヨハネ4:21-24
21 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
22 あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。
23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
このような真理に基づくと、ピリピのルデヤの家における集まりや獄吏の家の集まりは、キリストの教会の条件を完全に満たしている。
使徒16:15
そして、この婦人もその家族も、共にバプテスマを受けたが、その時、彼女は「もし、わたしを主を信じる者とお思いでしたら、どうぞ、わたしの家にきて泊まって下さい」と懇望し、しいてわたしたちをつれて行った。
使徒16:31-34
31 ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。
32 それから、彼とその家族一同とに、神の言を語って聞かせた。
33 彼は真夜中にもかかわらず、ふたりを引き取って、その打ち傷を洗ってやった。そして、その場で自分も家族も、ひとり残らずバプテスマを受け、
34 さらに、ふたりを自分の家に案内して食事のもてなしをし、神を信じる者となったことを、全家族と共に心から喜んだ。