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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

キリストの体(3)

Ⅰコリント6:19-20

19 あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。

20 あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。

Ⅰコリント12:12-27

12 からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。

13 なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。

14 実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。

15 もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。

16 また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。

17 もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。

18 そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。

19 もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。

20 ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。

21 目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。

22 そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、

23 からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、

24 麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。

25 それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。

26 もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。

27 あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。 

 目が手に対して「愚かで目の見えぬ者!」と罵っても、また手が目に「不器用な怠け者!」と言い返しても、互いは同じ体の一部であり、互いに必要とし合っていることには変わりはない。

 頭が足に向かって「低俗で泥臭い!」と悪口を言っても、また足が頭に「実行力のない詭弁家!」と言い返しても、どちらも同じ体の一部として互いに助け合うために神に備えられたものである。

神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。

 「自分の体は自分自身のものではなく、御子のいのちという計り知れない代価によって買い戻された、神のものである」という真理と、「一人一人のキリスト者は、キリストの体に属し、神によって備えられた肢体である」という真理は、現代に多く見られる個人的経験に基づいた主観主義や極端な個人主義的信仰を正す神の光である。

 使徒パウロがこれらの真理を書き送った教会が、分裂や不品行、高慢などによって混乱の状態にあったコリントの共同体であったのは意味深い。

Ⅰコリント1:11-12

11 わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている。

12 はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合っていることである。 

Ⅰコリント3:3b-4

3b あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。

4 すなわち、ある人は「わたしはパウロに」と言い、ほかの人は「わたしはアポロに」と言っているようでは、あなたがたは普通の人間ではないか。 

 コリントの信徒たちの集まりの中で、「パウロ派」「アポロ派」「ケパ(ペテロ)派」「キリスト派」と党派を作り、互いに争っていたのである。

 この中で「私はキリストにつく」と主張していたグループは、一見、パウロやペテロなど使徒とは言え弱さをもった人間についていたグループよりも霊的に思えるが、実際は「自分は他の人々のように人間に従っておらず、キリストだけにつく」という「取税人のふりをしたパリサイ人」的態度であり、その霊性は肉に属するものである。

ルカ18:9-14

9 自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。

10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。

11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。

12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。

13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。

14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。 

 「私はキリストにつく」という宣言は、それ自体、全てのキリスト者の正統的信仰告白である。しかしその告白の隠れた霊性は、キリストの体という集合体の文脈の中でこそ、本質が試され、明らかにされるのである。なぜならキリストの体である教会は、あらゆることを包括し、光を当て、聖別する方が満ち満ちているからである。

エペソ1:23

この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。

 

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