十字架に示されている不変の愛
ヨハネ13:1-10
1 過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。
2 夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、
3 イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、
4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、
5 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。
6 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
7 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
8 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。
9 シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。
10 イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。
使徒ペテロは、自分の師である主イエスが弟子たちの足を洗い始めたのを見、恐縮して「わたしの足を決して洗わないで下さい」と言った。当時、「招待客の足を洗う」という行為自体、しもべや奴隷の務めだったからである。 ペテロが感じた「気まずさ」は、誰でも理解できるものである。
しかし興味深いのは、ペテロに対する主イエスの峻厳な答えだ。「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる。」 御子はペテロの謙遜な態度に対して、「君は自分の立場をよくわきまえている。よし、合格。」とは言わなかった。ここではペテロが他の弟子たちより謙遜かどうかなどは問題点ではなかったのである。
また主イエスが「もし私があなたの足を洗わないなら」と言っていることも注目すべきである。「もしあなたが足を洗わせないなら」とは言っていない。つまり主体はあくまで主イエス・キリスト自身であり、彼の行為であり、人間の徳や選択ではないことを暗示している。
それはこの「足を洗う」という行為が、十字架の犠牲の死を頂点とする、神の人類に対する至上の愛の顕れだったからである。
過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。
Ⅰヨハネ4:9-10
9 神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。
私たち人間がどれだけ謙遜になろうと努力したとしても、また逆に自己中心で高慢な態度を取ろうとも、そして十字架の愛を信じようが否定しようが、神が私たちを愛して下さり、私たちの罪の清めのために御子が十字架の上で命を捧げてくださったという事実は神のものであり、決して変わることのないものである。
ヨハネ3:16
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
ローマ5:6-8
6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
もし誰かがその事実に心を留め、自らそれを信じて感謝するならば、神の愛はその人の心の中に豊かに注がれるのである。まるで朝、締め切った窓を開けると、まぶしい光と共に新鮮な空気が部屋に入ってくるように。
この神の愛が不変であるからこそ、人はどのような状況に置かれようと、またどのように罪深くとも、信頼して自分の魂を委ねることができるのである。