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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

『ローマびとへの手紙』(26)十字架のイエス・キリストに神の義が示されている

ローマ3:25-31

25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、

26 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。

27 すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。 

28 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。

29 それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。

30 まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。

31 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。 

 「贖いの供え物」としてのキリストに神の義が完全な形で示されている。しかし何と私たちはそれについて無関心だろうか。社会のシステムや特定の集団や個人を見て、正義がないことを嘆き、また反対に移り行く正義に気を奪われ、あるときは高揚し、そして時隔てず失望し、それを何度も繰り返す。

 真の義、時や状況によっても変わることのない永遠の義は神その方であり、御子イエスの十字架のうちに完全に示されている。そしてそれをただ信じることによって、罪びとは「義」として神に認められるのである。

 私たちが聖書の神を正しいと認めたから、私たちは正しい人になるのではない。罪びとがどのような評価を下そうとも、神自ら永遠に義であり、その神がイエスを信じる者をその信仰のゆえに一方的に義とするのである。

 そこには何の誇りもない。27節の「どこにわたしたちの誇があるのか。全くない」の「全くない」は原語で一つの単語「εξεκλεισθη exekleisthE」であり、人間のうちからその誇りが「除外されている」というニュアンスである。

 実際、私たちのうちにはどこを探しても神に正しいと認められるようなものは存在しない。ただ十字架につけられたキリストのうちにある神の義を見上げ、それを信じるものが神に義と認められるのである。ちょうど、モーセの杖によって蛇が持ち上げられ、それを見上げたものが死から救われたように。

民数記21:5-9

5 民は神とモーセとにむかい、つぶやいて言った、「あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく、水もありません。わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました」。

6 そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。

7 民はモーセのもとに行って言った、「わたしたちは主にむかい、またあなたにむかい、つぶやいて罪を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように主に祈ってください」。モーセは民のために祈った。

8 そこで主はモーセに言われた、「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。

9 モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。 

ヨハネ3:14-15

14 そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。

15 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。 

 自分や他人の中に潜む「蛇」を捕まえようと追いかけても救いなどありはしない。噛まれて死んでしまった人をみて、怯えていても解決はない。ただ神が備えてくださった十字架のイエス・キリストを見上げるだけである。