an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「食べ終わった皿に唾を吐く」行為

Ⅱコリント6:13-18

13 わたしは子供たちに対するように言うが、どうかあなたがたの方でも心を広くして、わたしに応じてほしい。

14 不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。

15 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。

16 神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、「わたしは彼らの間に住み、かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」。

17 だから、「彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触てはならない。触なければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。

18 そしてわたしは、あなたがたの父となり、あなたがたは、わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。

Ⅱコリント11:1-3

1 わたしが少しばかり愚かなことを言うのを、どうか、忍んでほしい。もちろん忍んでくれるのだ。

2 わたしは神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している。あなたがたを、きよいおとめとして、ただひとりの男子キリストにささげるために、婚約させたのである。

3 ただ恐れるのは、エバがへびの悪巧みで誘惑されたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである。

Ⅱコリント12:20-21

20 わたしは、こんな心配をしている。わたしが行ってみると、もしかしたら、あなたがたがわたしの願っているような者ではなく、わたしも、あなたがたの願っているような者でないことになりはすまいか。もしかしたら、争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、ざんげん、高慢、騒乱などがありはすまいか。

21 わたしが再びそちらに行った場合、わたしの神が、あなたがたの前でわたしに恥をかかせ、その上、多くの人が前に罪を犯していながら、その汚れと不品行と好色とを悔い改めていないので、わたしを悲しませることになりはすまいか。  

 コリントの信徒らに対して「娘に対する父親」のように「心を開いて語り」「愛し」、危険に晒されていないか「恐れ」「心配していた」使徒パウロが、現代の教会の状態を見たらどのような反応をするだろうか。

 彼が恐れていたことは、現実に私たちの目の前にないか。私たちの「うち」にないか。私たちの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失ってはいないか。不信者とつり合わないくびきを共にし、「義と不義」は混同し、光は闇と呼ばれ、闇は光と呼ばれていないか。信仰と不信仰が混じり合って、私たちの証を濁していないか。聖霊の宮である私たちの体の隠れた一室に、エゴという恐ろしい偶像が置かれていないか。

エバがへびの悪巧みで誘惑されたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである。

 エバの心は「目が開ける」「賢くなるには好ましい」という甘言によって誘惑され、その思いは罪に汚された。生ける神と直接交流し、夫アダムと共に仕えていたエバに何が足りなかったのか。

 救いを経験した信仰者にとって、自分の魂の救い主イエス・キリストに対する純情や貞節を失ってまで、固執するべきほどの価値あるものは存在するのだろうか。

 イタリアの慣用句で「sputare nel piatto dove si è mangiato」という表現がある。直訳すると、「食べ終わった皿に唾を吐く」という意味である。用意された食事を食べて、その恩恵を受けたくせに、感謝を気持ちを忘れ、逆に卑下するというニュアンスである。

Ⅱペテロ2:1-2

1 しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。

2 また、大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである。 

 もし主なる神の言葉の啓示から、救いという計り知れない恩恵を無償で受けたのなら、その救いを備えてくださったキリストに対する純情と貞操とを大切に守っていこう。

 神の言葉に「唾を吐く」ようなことをしてはならない。