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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「ベールの教え」について(2)

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Ⅰコリント11:1-16

1 わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。

2 あなたがたが、何かにつけわたしを覚えていて、あなたがたに伝えたとおりに言伝えを守っているので、わたしは満足に思う。

3 しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。

4 祈をしたり預言をしたりする時、かしらに物をかぶる男は、そのかしらをはずかしめる者である。

5 祈をしたり預言をしたりする時、かしらにおおいをかけない女は、そのかしらをはずかしめる者である。それは、髪をそったのとまったく同じだからである。

6 もし女がおおいをかけないなら、髪を切ってしまうがよい。髪を切ったりそったりするのが、女にとって恥ずべきことであるなら、おおいをかけるべきである。

7 男は、神のかたちであり栄光であるから、かしらに物をかぶるべきではない。女は、また男の光栄である。

8 なぜなら、男が女から出たのではなく、女が男から出たのだからである。

9 また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのである。

10 それだから、女は、かしらに権威のしるしをかぶるべきである。それは天使たちのためでもある。

11 ただ、主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。

12 それは、女が男から出たように、男もまた女から生れたからである。そして、すべてのものは神から出たのである。

13 あなたがた自身で判断してみるがよい。女がおおいをかけずに神に祈るのは、ふさわしいことだろうか。

14 自然そのものが教えているではないか。男に長い髪があれば彼の恥になり、

15 女に長い髪があれば彼女の光栄になるのである。長い髪はおおいの代りに女に与えられているものだからである。

16 しかし、だれかがそれに反対の意見を持っていても、そんな風習はわたしたちにはなく、神の諸教会にもない。 

 このベールについての教えの部分で解釈を複雑にしているのは、十五節後半の翻訳ではないだろうか。「長い髪はおおいの代りに女に与えられているものだからである」とある。女性が長い髪でいたらベールをかぶっているのと同じではないか、という意見がでるのも理解できる表現である。

 他の和訳聖書を読んでも口語訳と同じように翻訳されている。

岩波翻訳委員会訳:

髪は〔彼女には〕覆いの代わりに与えられているのだからである。

 

新共同訳:

長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。

 

前田訳:

髪は被りものの代わりに女に与えられているからです。

 

新改訳:

なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。

 

塚本訳:

髪はかぶり物として女に与えられたからである。

 

文語訳:

それ女の髮の毛は被物として賜はりたるなり。 

 この「覆い、かぶり物」と和訳されている原語は「PERIBOLAION」で、Strongsにおいて「 something thrown around one, that is, a mantle, veil: - covering, vesture」と説明されている。(http://biblehub.com/greek/4018.htm

 しかしながら、もし『長い髪=ベール』という意味であるならば、六節は矛盾することになる。

もし女がおおいをかけないなら、髪を切ってしまうがよい。髪を切ったりそったりするのが、女にとって恥ずべきことであるなら、おおいをかけるべきである。

 長い髪をもっていても、祈るときにベールをかけないのなら髪を切ってしまうがよい、といっているのである。つまりベールをかけないのならば、髪を切っている状態と同じであるという意味である。

かしらにおおいをかけない女は、そのかしらをはずかしめる者である。それは、髪をそったのとまったく同じだからである。

 だから使徒パウロの十五節の主張は、『長い髪=ベール』ではないことがわかる。それでは、十四節と十五節に戻って何を主張しているのか見てみると、神の創造である「自然、つまり人間の本来の在り方」において、

  • 男の長い髪=男の恥
  • 女の長い髪=女の光栄

という対比・補完関係があることを啓示している。つまり男が長い髪でいれば恥となるが、逆に女には髪がないことの恥を覆う「光栄」として「長い髪」が与えられている、というのである。(イタリア語訳の一つNRVにおいては、十五節後半の部分を「perché la chioma le è data come ornamento. 」とし、「PERIBOLAION」を「Ornamento、飾り、装飾、誉れ」と訳されており、文脈を考慮して翻訳されていることが理解できる)

 そして「自然、つまり人間の本来の在り方」という次元の上にある霊的次元(「祈をしたり預言をしたりする時」)において、主なる神が予め定めた「権威の秩序」、つまり「すべての男のかしらはキリスト、女のかしらは男、キリストのかしらは神」という霊的秩序に生きていることを示すために、髪、つまり「女性自身の光栄」の上に「権威のしるし」をつけることが求められているのだと私は解釈する。

 「天使たちのため」という難解な目的も、この霊的次元の秩序の故ではないかと思う。

  このように祈りの時に被るベールを、「女性の光栄」の上につけられた「霊的権威の目に見えるしるし」と考えると、「男尊女卑思想」や「中世的女性支配思想」とは程遠い、深遠な霊的教えであることがわかる。

 

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