an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

イエス・キリストは道であり、真理であり、命である。

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ヨハネ14:1-6

1 「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。 

2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。 

3 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。 

4 わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。 

5 トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。 

6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。

  このとても有名な箇所を改めて読んで見て、その深さに驚く。ここでは、教会の携挙についてだけ啓示しているのではない。

  • またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう
  • わたしのおる所
  • わたしは道であり

 「父なる神の御許への道」と聞くと、一瞬冒頭の写真のような長くきつい上り階段のようなイメージが湧くかもしれない。しかし現実には、復活したイエス・キリストが私達の心に宿っていることによって、私達はどんな状況においても絶えず父なる神の御許にいるのである。

 イエスは霞みがかった天の御座から大声で、「お前たちの目の前にある道が、私が地上において経験した辛く厳しい道だ。さあ、頑張って登ってこい」と言っているのではない。復活した後に天の御座につかれた方は、聖霊を通して私達の心のなかへ降りて来てくださり、私達を霊的にキリストの中へ導いてくださるのである。「わたしがおるところ」という表現に未来形ではなく現在形が使われているように、この地上にいて御子が父なる神の前にいた「そのポジション」に私達を招き入れてくださるのである。だからこそ、私達がキリストを信じて、キリストに自分の魂を委ねるとき、私達はその瞬間、「道」を歩いているのである。そして「真理」によって私達の心は強められ、「命」によって次の一歩を踏み出せるのである。

 誰でも今現在、この地上において、他の誰もいることができない一つの位置を占めている。多くの場合、その位置からどの方向に向かっていけばいいのか迷い、悩み、たとえ歩いているとしても心の中は不安で一杯で、内側から湧き出る力がないので疲れ切っている。そして孤独である。誰もあなたがいる同じ場所には立つことができない。しかしその場所にイエス・キリストはおりてきて、「わたしは道であり、真理であり、命である。」と励ましてくださるのだ。だからこそ、彼の言葉は平安に満ちているのだ。

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」