部屋の中の死、そして御言葉との出会い
三十一歳の若さでこの世を去った石田徹也氏のこの作品を観て、留学したばかりの一人暮らしの頃を思い出した。イタリアの眩しい光が差し込むガランとした部屋に一人いて、しかし心の中に「死のようなもの」が無言で居座っていた。
まるでこの絵画の中の電車のように、何かに乗り遅れて一人取り残されてしまっているような、「どうにかしなければ、でも何もできない」という焦りに追いかけられている、恐怖に似た思いで心が押しつぶされていた。
死の恐怖ではなかった。「生きることへの恐怖」であった。毎朝目を覚まし、空虚な時の流れに向き合うのが恐ろしくてしょうがなかった。
そんな時、聖書を読みはじめたのである。
伝道者の書1:1-14
1 ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。
2 伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。
3 日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。
4 世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。
5 日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。
6 風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。
7 川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。
8 すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。
9 先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。
10 「見よ、これは新しいものだ」と言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。
11 前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のことも、後に起る者はこれを覚えることがない。
12 伝道者であるわたしはエルサレムで、イスラエルの王であった。
13 わたしは心をつくし、知恵を用いて、天が下に行われるすべてのことを尋ね、また調べた。これは神が、人の子らに与えて、ほねおらせられる苦しい仕事である。
14 わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである。
なぜだか覚えていないが、創世記でもなく、新約聖書の福音書でもなく、この伝道者の書から読みはじめ、ソロモンが表現している虚無感が自分の心を鏡に映しだしているようで、非常に驚いたことを記憶している。それと同時に、心の中に「この本の中に、お前が求めている真理がある。これを読め」という声を聞き、その後は貪るようにひたすら聖書を読み続けた。まさに預言者エレミヤが告白しているのと同じように。
エレミヤ15:16(新共同訳)
あなたの御言葉が見いだされたとき/わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり/わたしの心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって/呼ばれている者です。
同じエレミヤの口を通して語られた言葉も、私の心の状態を如実に顕していた。
エレミヤ9:21
死がわれわれの窓に上って来、われわれの邸宅の中にはいり、ちまたにいる子どもらを絶やし、広場にいる若い人たちを殺そうとしているからだ。
そんな霊的死の状態に奴隷のように閉じ込められていた私の心に、十字架につけられたイエス・キリストが、命となり光となって入ってきてくださったのである。
神の御言葉の力に感謝と栄光が帰されますように。
聖書引用
新改訳 ©1970,1978,2003新日本聖書刊行会
口語訳 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955
新共同訳 (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988