『ローマびとへの手紙』(21)ひとりもいない。ひとりだけいる。
ローマ3:10-20
10 次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。
11 悟りのある人はいない、神を求める人はいない。
12 すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。
13 彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、
14 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。
15 彼らの足は、血を流すのに速く、
16 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。
17 そして、彼らは平和の道を知らない。
18 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。
19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。
20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
使徒パウロはここで、旧約聖書の様々な聖句をそのまま、もしくは部分的に引用し、神の視点から見た「人間像」を描き出している。
ヨブ14:4
だれが汚れたもののうちから清いものを出すことができようか、ひとりもない。
詩篇14:1-3
1 聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない。
2 主は天から人の子らを見おろして、賢い者、神をたずね求める者があるかないかを見られた。
3 彼らはみな迷い、みなひとしく腐れた。善を行う者はない、ひとりもない。
伝道7:20
善を行い、罪を犯さない正しい人は世にいない。
エレミヤ4:22
「わたしの民は愚かであって、わたしを知らない。彼らは愚鈍な子どもらで、悟ることがない。彼らは悪を行うのにさといけれども、善を行うことを知らない」。
エレミヤ17:9
心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。
ホセヤ7:10
イスラエルの誇は自らに向かって証言している、彼らはこのもろもろの事があっても、なおその神、主に帰らず、また主を求めない。
詩篇5:9
彼らの口には真実がなく、彼らの心には滅びがあり、そののどは開いた墓、その舌はへつらいを言うのです。
イザヤ59:7-8
7 彼らの足は悪に走り、罪のない血を流すことに速い。彼らの思いは不義の思いであり、荒廃と滅亡とがその道にある。
8 彼らは平和の道を知らず、その行く道には公平がない。彼らはその道を曲げた。すべてこれを歩む者は平和を知らない。
詩篇36:1
聖歌隊の指揮者によってうたわせた主のしもべダビデの歌 とがは悪しき者にむかい、その心のうちに言う。その目の前に神を恐れる恐れはない。
特に詩篇14を読んでみると、使徒パウロが強調している「ひとりもいない」という表現の文脈が理解できる。つまり、愚かな者がその心の中で、「神はない」(字義通りだと「אֵ֣יןאֱלֹ הִ֑ים NO GOD」となる。つまり、神の存在を否定しているだけでなく、たとい神の栄光を見てもそれを認めず否定することも示している)と言うとき、主なる神は、「天から人の子らを見おろして、賢い者、神をたずね求める者があるかないかを見られた。彼らはみな迷い、みなひとしく腐れた。善を行う者はない、ひとりもない」と宣言するのである。
人間の観点から人類史と社会を見渡すならば、「正しい人」「賢い者」「悟りのある者」「善を行う者」と言える人々は「いる」と言えるだろう。互いの欠点や間違えを大目に見、互いに褒めあうことによっても、人間的・社会的な調和をある程度保つことができるかもしれない。しかし主なる神の観点や要求していることはそのような調和と妥協とは異なり、主なる神の観点では「正しい人」「賢い者」「悟りのある者」「善を行う者」は「ひとりもいない」のである。
イザヤ41:27-29
27 わたしははじめてこれをシオンに告げた。わたしは、よきおとずれを伝える者をエルサレムに与える。
28 しかし、わたしが見ると、ひとりもない。彼らのなかには、わたしが尋ねても答えうる助言者はひとりもない。
29 見よ、彼らはみな人を惑わす者であって、そのわざは無きもの、その鋳た像はむなしき風である。
イザヤ59:12-20
12 われわれのとがは、あなたの前に多く、罪は、われわれを訴えて、あかしをなし、とがは、われわれと共にあり、不義は、われわれがこれを知る。
13 われわれは、そむいて主をいなみ、退いて、われわれの神に従わず、しえたげと、そむきとを語り、偽りの言葉を心にはらんで、それを言いあらわす。
14 公平はうしろに退けられ、正義ははるかに立つ。それは、真実は広場に倒れ、正直は、はいることができないからである。
15 真実は欠けてなく、悪を離れる者はかすめ奪われる。主はこれを見て、公平がなかったことを喜ばれなかった。
16 主は人のないのを見られ、仲に立つ者のないのをあやしまれた。それゆえ、ご自分のかいなをもって、勝利を得、その義をもって、おのれをささえられた。
17 主は義を胸当としてまとい、救のかぶとをその頭にいただき、報復の衣をまとって着物とし、熱心を外套として身を包まれた。
18 主は彼らの行いにしたがって報いをなし、あだにむかって怒り、敵にむかって報いをなし、海沿いの国々にむかって報いをされる。
19 こうして、人々は西の方から主の名を恐れ、日の出る方からその栄光を恐れる。主は、せき止めた川を、そのいぶきで押し流すように、こられるからである。
20 主は言われる、「主は、あがなう者としてシオンにきたり、ヤコブのうちの、とがを離れる者に至る」と。
主なる神は地上に義人も仲に立つ者も神を求める者もいないの見、「ご自分のかいな(「主の腕」という意味で、力や助け、権能を表す)である御子を地上に遣わし、贖う者としてシオン(エルサレム)に遣わして、神と罪びとの仲介者として、十字架の贖罪なわざを成し遂げ、その義によって勝利された。
それゆえ、御子は唯一の仲介者であり、その唯一の義の行為によって、信じる者を義とされるのである。
ローマ5:18-19
18 このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。
19 すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。