an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「十字架の友」としての教会

家庭に、学校に、仕事場に、「自分の居場所」を見出せない魂に

「場所ではない居場所」を提供する力と責任を教会はもっていると思う。

どこに行っても居心地悪さしか感じない、しかもその理由がわからない魂が、

仮面をかぶらず、身構えないでそのまま入っていくことができる繫がり。

 

学歴や肩書、社会的地位、職種、成績、収入…

消し去ることのできない過去の経験、現在の悲惨、そして将来への不安。

輝かしい過去、満ち足りた現在、安泰だと思える将来。

 

これらのものに依存していない繫がりをつくる資質が、

十字架に架けられた御子イエス・キリストを愛し、

従おうとする教会には与えられていると思う。

御子自身が宗教権力者たちから「罪びとの友」と揶揄されながらも、社会的に疎外されていた人々と共にいたのだから。

 

地域教会に傷ついた魂が近づかない時、この世の不信仰を嘆くよりも、むしろ私たちが本当に「十字架の友」として歩んでいるかどうかを自省すべきではないだろうか。

ガラテヤ6:14-16

14 しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。

15 割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。

16 この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように。

主なる神の不思議な導き

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(赤でアンダーラインを引いたところがピリピとローマ)

 一般的に使徒行伝16章に記述されているピリピ(Philippi)の教会の誕生のエピソードに基づいて、「ルデヤはキリストの福音を受け入れた最初のヨーロッパ人で、しかも女性だった」とか「ピリピ教会がヨーロッパ最初の教会」などと主張されている。

 しかし実際にはルデヤは小アジア(現在のトルコ西部)のテアテラ市出身の商人で、おそらくその仕事の関係で、当時重要なローマ植民都市であったピリピに家族で滞在もしくは移住していた時に福音を聞くことになった。

使徒16:14-15

14 ところが、テアテラ市の紫布の商人で、神を敬うルデヤという婦人が聞いていた。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた。 

15 そして、この婦人もその家族も、共にバプテスマを受けたが、その時、彼女は「もし、わたしを主を信じる者とお思いでしたら、どうぞ、わたしの家にきて泊まって下さい」と懇望し、しいてわたしたちをつれて行った。 

  ここにはとても不思議な御霊の導きが啓示されている。というのも、上の地図でわかる通り、第二次伝道旅行において、使徒パウロとテモテはトロアスからピリピに渡る前に、テアテラ市からそれほど離れていないところを通っていたのである。

 しかし御霊は私たちには理解できない理由で、使徒たちがその時点において福音を伝えるのを禁じていたのである。

使徒16:6-8

6 それから彼らは、アジヤで御言を語ることを聖霊に禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方をとおって行った。

7 そして、ムシヤのあたりにきてから、ビテニヤに進んで行こうとしたところ、イエスの御霊がこれを許さなかった。

8 それで、ムシヤを通過して、トロアスに下って行った。 

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 つまりテアテラ市出身のルデヤは、自分の町でではなく、海の向こうのギリシャのピリピで救いを受けなければならなかったのである。それはもしかしてルデヤの家において、ピリピ教会の核が生れなければならなかったからかもしれない。

使徒16:40

ふたりは獄を出て、ルデヤの家に行った。そして、兄弟たちに会って勧めをなし、それから出かけた。 

 しかし冒頭にも書いた通り、このピリピ教会の誕生は、「ヨーロッパにおける最初の教会の誕生」ではなかった。というのも、このエピソードの後、パウロはコリント市へ伝道のために訪れた時、アクラとプリスキラという霊的に非常に成熟した信仰者夫婦に知り合うからである。この夫婦は、クラウデオ皇帝が西暦49年に発令したユダヤ人追放の勅令により、ローマから移住してきていた。(おそらくこの勅令が原因で、当時非常に重要なローマ植民都市であったピリピにシナゴーグがなく、宣教グループの中でユダヤ人であったシラスとパウロだけが牢獄に入れられたのではないかと思われる。使徒16:20参照)

使徒18:1-2

1 その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。

2 そこで、アクラというポント生れのユダヤ人と、その妻プリスキラとに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるようにと、命令したため、彼らは近ごろイタリヤから出てきたのである。  

  つまりこの西暦49年の時点で、ローマにはアクラとプリスキラを生み出すような霊的に成熟した環境があったことを暗示している。

 実際、ローマにおける教会の誕生は、エルサレムのペンテコステの際に救われ、聖霊の満たしを受けた「ローマから巡礼に来ていた者たち」が、自分たちの街に戻って御子イエスがキリストであることを同胞に伝えたことが発端だったと言われている。

使徒2:5-11

5 さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、

6 この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。

7 そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。

8 それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。

9 わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、

10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者

11 ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。 

 主なる神はその御心によって一人一人の魂を導き、個人的な領域だけでなく、教会を通して実現するご自身の計画に最も適した時と状況のうちに、それらの魂を救いに至らせるのである。

 私自身もその神の知恵によって、生れ育った国から4000km離れた地に導かれ、救いを受けた一人である。

「幼子」、そして「乳母」「父」のように

 『新改訳2017』では、Ⅰテサロニケ2:7が以下のように変更されているらしい。

さて、底本が変わることによって翻訳にどれくらい違いが生じるのでしょうか。実のところ、底本が変わっても、本文の変更は全体から見ればごく一部です。また変更された箇所でも、多くの場合、訳の違いはあまり生じません。しかしまた、数は少なくても、大きく変わった箇所があることも事実です。

その一つ、テサロニケ人への手紙第一2章7節を紹介しましょう。NA25版まで本文に採用されていた「エーピオイ=優しい」という語が、26版以降は「ネーピオイ=幼い」に変わりました。ギリシャ語の一文字(ローマ字にすると〈n〉)が加わっただけなのですが、その結果、前後の節も含めて訳文が変わることになりました。

2章6-8節全体をごらんください。まずは、第三版までの訳、それから、『新改訳2017』の訳です。特に重要な部分には太字にしておきます。

6 また私たちは、あなたがたからも、ほかの人たちからも、人からの栄誉は求めませんでした。

7 キリストの使徒として権威を主張することもできましたが、あなたがたの間では幼子になりました。私たちは、自分の子どもたちを養い育てる母親のように、

8 あなたがたをいとおしく思い、神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています。あなたがたが私たちの愛する者となったからです。

 要するに底本(翻訳のベースとなったギリシャ語聖書。この場合、最新のNA28版とそれに対応するUBS第5版)において、以前の新改訳バージョンの底本であったNA24版から変更があったからだという。(UBS修正第3版を底本とする新共同訳1987版では、すでに「幼子のようになりました」となっている。)

「ネーピオイ=幼い」では意味が通じないとか、パウロが回心者たちの未熟さに言及するときに使うこの語を、自分自身に使うはずがない、といったことで、「エーピオイ=優しい」が本来の読み方とされてきました。

「ネーピオイ」は、うっかりミスで語頭に〈n〉がついてしまったと説明されてきました。しかし、「ネーピオイ」という読み方のほうが、有力な写本の支持を得ていること、また、それを採用しても、十分に意味をたどることができるということで、判断が覆ったのです。

実際、「ネーピオイ」で6-8節全体を訳し直すと、「使徒」との対比で「幼子」の比喩は生きてきます。つまり、権威を振りかざすことをしないパウロの姿勢が、「幼子」の一語でより印象深く表現されていることが分かります。そればかりか、子どもを養い育てる母親というもう一つの比喩も、8節に直接つながって、とても豊かな表現であることが明らかになります。

 確かに「幼子のようになりました」という霊性は、使徒パウロがエペソ教会に書き送った手紙においても確認できる。

エペソ3:7-9

7 わたしは、神の力がわたしに働いて、自分に与えられた神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのである。

8 すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、

9 更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである。 

  自分が全ての信徒たちのうちで最も小さい者であり、福音の僕として仕えていると強調している。

 また自ら宣教し建て上げたコリント教会へは、自分が使徒と呼ばれる値打ちのない者と遜っている。

Ⅰコリント15:9-10

9 実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。

10 しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。 

 この「謙遜」と「献身的奉仕」の霊性は、誰が一番偉いかと互いに言い争っていた弟子たちを戒めた御子の教えにおいても確認することができる。

マルコ9:33-37

33 それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるとき、イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。

34 彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。

35 そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。

36 そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。

37 「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。

ルカ22:24-27

24 それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。

25 そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。

26 しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。

27 食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。 

 このように『新改訳2017』によれば、使徒パウロはテサロニケ教会へのこの短い言葉の中で、自分たちを「誇ることのない幼子」、そして「子供たちを養い育てる乳母(τροφός trophos)」また「子供たちを教え導く父親」という、三つの在り方で提示していることになる。

(岩波翻訳委員会訳1995)

7 キリストの使徒として重んじられることができたにもかかわらず〔、私たちはそうしなかった〕。むしろ私たちは、あなたがたの間では、ちょうど乳母が彼女自身の〔実の〕子供たちを育むように、優しくなった

11 また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、

12 ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。 

 信徒たちは「使用人」、酷い場合には「搾取すべき奴隷」、そして自分は「絶対服従すべき主人」として振る舞う「指導者」も少ないない時世において、この御言葉は鋭い光を放っている。

 

主の山の備え

創世記22:1-19

1 これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。

2 神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。

3 アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。

4 三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。

5 そこでアブラハムは若者たちに言った、「あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。

6 アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。

7 やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。

8 アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。

9 彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。

10 そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、

11 主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。

12 み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。

13 この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。

14 それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。

15 主の使は再び天からアブラハムを呼んで、

16 言った、「主は言われた、『わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、

17 わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、

18 また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである』」。

19 アブラハムは若者たちの所に帰り、みな立って、共にベエルシバへ行った。そしてアブラハムはベエルシバに住んだ。  

「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」

「彼らが神の示された場所にきたとき」

「それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお『主の山に備えあり』と言う。」

 

 アブラハムの家族が生活していたベルシェバから「モリヤの地」「主の山」(のちのエルサレム、ソロモン王が神殿を建てることになる丘。歴代誌下3:1参照)まで約70キロメートル。往復で約140キロ。片道二日半、そしてすぐに戻るには随分の距離ではないだろうか。いくらアブラハムが遊牧民であったとしても、気楽に往って帰ってくる距離ではなかったはずである。

 主なる神は、アブラハムが住んでいたベエルシェバの近場の小高い丘の一つを指定することはできなかったのだろうか。素気ない見方をすれば、主なる神がアブラハムのために備えたのは「一頭の雄羊」であって、「場所」はどこでも同じであったかのように思える。

 しかし主なる神にとっては、たとえアブラハムとイサクが三日間歩かなければいけなかったとしても、「主の山」へ行かなければいけなかったのであり、まさにその「場所」でアブラハムとイサクの全てに関わる、いや御子イエスの十字架の贖罪による人類の救いまで予示する「備え」を用意しておられたのである。

 その「備え」は、アブラハムとイサクが歩いた二日半の道程よりもはるかに「長い道のり」、天地創造以前から計画されていた「備え」であった。

ミカ5:2

ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。

Ⅰペテロ1:18-20

18 あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、

19 きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。

20 キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終りの時に至って、あなたがたのために現れたのである。

 

自分の影に怯える子供


Una bambina che ha paura dell' ombra

 勿論この女の子は「しつこく付きまとう黒い何か」が、太陽の光に照らされた自分が生み出している影であることを理解していないから怯えているのだが、霊的な次元に適用すると、私たちの在り方と共通する点が少なくない。

 ある場合、私たちは自分に付きまとう「影」ばかり意識し、なぜそのような「影」が見えるのかを理解しないがゆえ、不安に囚われ続けている。為すべき善ができず、成してはならない悪を犯してしまう自分の「影」がうるさく付きまとい、私たちを怯えさせ、失望させる。本当はこうしたい、こうありたい、と心から願っているのに、ふと気づくと、自分がしたくないことしている、あるべき姿からかけ離れた自分の「影」がそこにあるのである。

 その「影」は、私たちの良心が「なすべき善」「あるべき姿」という光によって照らされてできるものである。

 多くの場合、私たちの心はその「影」を見ないで済むために、光から離れ、光を避けようとする。しかし光は様々な機会をとらえ、わずかな隙間からも私たちの心を照らそうとする。しかし頑なになってその光を避ければ避けるほど、人の心は混乱と孤独の暗闇の中へと迷い込み、自分がどこにいるか、何者であるかを見失ってしまうのである。

 しかしもし私たちが光に照らされることから逃げず、むしろ光に目を向け続けるならば、その光はやがて私たちを全方向から照らし、私たちは自分の影に囚われたり、怯えることもなくなるのである。

エペソ5:8-14(新改訳)

8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。

9  ・・光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。・・

10 そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。

11 実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。

12 なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。

13 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。

14 明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」

詩篇36:9(新改訳)

いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。 

『ボローニャで中世のユダヤ人墓地が発見される』

RITROVATO IL CIMITERO EBRAICO MEDIEVALE DI BOLOGNA DISTRUTTO NEL 1569, SE NE ERA PERSA OGNI TRACCIA

Con le sue 408 sepolture è il più grande finora noto in Italia.


L'eccezionale scoperta sarà il fulcro di un progetto di studio e valorizzazione del patrimonio culturale e della storia della comunità ebraica bolognese.

È la più vasta area cimiteriale medievale mai indagata in città, testimone di eventi che hanno radicalmente mutato la storia e la vita di una parte della popolazione bolognese tra il XIV e il XVI secolo.

Per 176 anni è stato il principale luogo di sepoltura degli ebrei bolognesi ma dopo le bolle papali della seconda metà del Cinquecento -che autorizzano la distruzione dei cimiteri ebraici della città- sopravvive per secoli solo nel toponimo di "Orto degli Ebrei".

Ritrovato nel corso degli scavi archeologici del 2012-2014, il cimitero ebraico medievale scoperto in Via Orfeo a Bologna non è solo il più grande finora noto in Italia ma un'opportunità unica di studio e ricerca.

Sono state scavate 408 sepolture di donne, uomini e bambini, alcune delle quali hanno restituito elementi d'ornamento personale in oro, argento, bronzo, pietre dure e ambra. Un gruppo di lavoro composto da Soprintendenza Archeologia Belle Arti e Paesaggio di Bologna, Alma Mater Studiorum Università di Bologna, Comunità Ebraica di Bologna e ricercatori indipendenti, con il supporto del Comune di Bologna, cercherà di ricomporne le vicende storiche, ricostruendo le dinamiche insediative e l'evoluzione topografica e sociale dell'area.

Uno degli obiettivi primari del Progetto è l'elaborazione di un piano di recupero della memoria e la valorizzazione del patrimonio culturale ebraico e della storia della comunità bolognese.

 

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(以下、私訳)

 

1569年に破壊され、あらゆる痕跡が失われていた、ボローニャの中世ヘブライ人墓地が発見される

 

408の墓によって、現在までにイタリアで知られている一番大きい墓地

 

この並外れた発見は、ボローニャのヘブライ人共同体の文化遺産と歴史の研究と価値の認識促進のプロジェクトの基点となるであろう。

ボローニャ市において今まで調査された一番広い中世の墓地エリアで、14世紀と16世紀の間のボローニャの人たちの一部の歴史と生活を根源的に変えた出来事の証拠である。

176年間にわたって、ボローニャのヘブライ人の埋葬の主要な場所であったが、1500年代後半の教皇の回勅の後、何世紀にも渡って「Orto degli Ebrei (ヘブライ人の菜園)」という地名だけにおいて生き残ることになる。

2012年から2014年の考古学発掘中に、ボローニャのオルフェオ通りに発見された中世のヘブライ人墓地は、現在まででイタリアで知られているなかで一番大きいだけでなく、研究と調査の唯一無二な機会である。

女性や男性、子供たちの408個の墓が発掘され、そのうちのいくつかからは、金や銀、青銅、準宝石、琥珀などの個人装飾品が発見された。

ボローニャ市のサポートと共に、ボローニャ考古学・美術・景観保護局とボローニャ大学、ボローニャヘブライ人共同体、フリーランスの研究者によって構成されたチームが、地域の人口定住の動学と地形学・社会学的発展を再現しながら、歴史の推移を再構成するよう努める。

このプロジェクトの主要な目標の一つは、(失われていた)記憶の回復の計画を作り上げ、ヘブライ文化遺産とボローニャ共同体の歴史の価値の認識促進である。

 

2017年11月7日

 1569年にユダヤ人墓地が破壊されたのは、同年2月26日に当時の教皇ピオ5世(本名アントニオ・ギスリエーリ Antonio Ghislieri)が公布した回勅『Hebraeorum Gens sola quondam a Deo dilecta』によって、ローマとアンコーナ以外の教皇領からユダヤ人を追放したことによる。教皇領の属していたボローニャのゲットーに住んでいたユダヤ人も追放され、その結果彼らの墓地は没収、サン・ピエトロ・マルティレ修道院の贈与され、そこの墓碑は破壊するよう命令が下された。(Breve storia della Comunità - Comunità Ebraica di Bologna 参照)

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I riassunti degli atti notarili conservati presso l’Archivio di Stato di Bologna riportano, nell’anno 1393, il resoconto dell’acquisto, da parte di Elia ebreo de Urbeveteri, di un appezzamento di terre ortive arborate collocato in contracta sancti Petri Martiris. Il terreno può essere identificato con l’area che sarà poi consacrata a luogo di sepoltura degli ebrei bolognesi fin dalla fine del XIV secolo. Questa funzione permane fino al 1569, quando l’emanazione di un Breve e di due Bolle Papali condanna le persone di religione ebraica ad abbandonare le città dello Stato Pontificio e ad essere cancellate dalla memoria dei luoghi dove avevano vissuto e operato.
Con la Bolla «Cum nimis absurdum», emanata il 14 luglio 1555, papa Paolo IV pone una serie di limitazioni ai diritti delle comunità ebraiche presenti nello Stato Pontificio: in particolare impone agli ebrei l’obbligo di portare un distintivo giallo, li esclude dal possesso di beni immobili, vieta ai medici ebrei di curare i cristiani e sancisce la costruzione di appositi ghetti dentro i quali gli ebrei avrebbero dovuto vivere.
Con la bolla «Hebraeorum Gens», emanata il 26 febbraio 1569, papa Pio V ordina entro tre mesi l’allontanamento dalle terre dello Stato Pontificio di ogni ebreo di ambo i sessi. “Trascorsi questi tre mesi chiunque, sia abitante sia forestiero, sia adesso sia in futuro, in qualunque momento sarà trovato in una città, terra o luoghi dei detti possedimenti […] sia spogliato di ogni avere e gli siano applicate le leggi fiscali, diventi schiavo della Chiesa di Roma e sia in perpetua servitù e la detta Chiesa rivendichi per se quegli stessi diritti che gli altri signori hanno sui servi e sulle proprietà.”

http://www.archeobologna.beniculturali.it/bologna/via_orfeo/cimitero_eb_med.htmから一部抜粋

 

(以下、私訳)

 ボローニャ国立文書館に保管されている公正証書のレジュメには、1393年にElia ebreo de Urbeveteri(「へブル人長老エリヤ」)による、contracta sancti Petri Martiris(サン・ピエトロ・マルティレの契約)の中の、樹木が植えてある菜園の土地一区画の購入の記録が残されている。土地は14世紀末からボローニャヘブライ人の埋葬の場所として聖別されることになるエリアと一致する。

 この機能は、一つの小勅書と二つの回勅の発布が教皇領の都市からユダヤ教徒の立ち退きと、生活し働いていた場所の記憶から消去されることを宣告した、1569年まで続くことになる。

 1555年7月14日に発布された回勅『Cum nimis absurdum』によってパウロ四世は教皇領にいるヘブライ人共同体の権利に対する一連の制限を設けた。特に、ヘブライ人に黄色い目印をつけて生活するよう義務付け、不動産の所有から除外し、ヘブライ人医師がキリスト教徒を治療することを禁じ、ヘブライ人が生活する場所としてゲットーの建設を認可した。

 1569年2月26日に発布された回勅『Hebraeorum Gens』によって教皇ピオ五世は、男女共全てのヘブライ人が3か月以内に教皇領の土地から離れるよう命じた。

 「三か月が経過したら、住民であろうと寄留者であろうと誰でも、現在も将来における如何なる時でも、町や土地、所有地にいた場合には、あらゆる所有物を剥奪され、収税法が適用され、ローマ教会の奴隷となり、永久の隷従にとどまり、上述の教会は他の主人が奴隷や所有物に対して持っているのと同じ権利を宣言するように。」

 ちなみにこの教皇ピオ5世は元々異端審議に関わり、教皇になってからは反宗教改革を強烈に推し進めた人物である。

 引用記事の翻訳には原文に忠実に「ヘブライ人」という表現を使ったが、基本的に「ユダヤ人」と同じ意味で使っている。

救われていないから救いを求め、そして「信じる者はみな救われる」

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信じる者は救われる、のか 社会学者 橋爪大三郎 :日本経済新聞

信じる者は救われる、のか 

社会学者 橋爪大三郎

2017/11/14 14:00

情報元

日本経済新聞 電子版

 

スピリチュアル(霊性)の話の三回目。

 救世軍(メソジスト教会系)の社会鍋。♪信じる者はみーんなー、みーんな救われるー、と歌っていた。キリスト教は、神を信じれば救われる、という教えなのか。

 むずかしい点だが、厳密にはそうではない。キリスト教は、神を信じれば救われます、などといった甘い教えではない。

 神を信じようかどうしようか→よし、神を信じよう→じゃあ救ってあげましょう。これだと、人間の決意(信仰)が、自分を救うことになる。そうではなく、人間を救うかどうかは神の一存で、人間が口をさし挟めない、と考えるのが正しい。

 じゃあ、神を信じても意味がないのか。いや、信仰は意味がある。こんな理屈だ。誰を救い誰を救わないか、決めるのは神。誰が信仰をもつか、決めるのも神。信仰は、神の恵みである。信じるから救われる、のではなく、救われているから信じることができる、である。こう理解すれば、「信じる者は救われる」と歌っても間違いでない。

 神は全知全能なので、人間の精神に働いて信仰を与えたり与えなかったりできる。キリスト教は、この働きをとくに聖霊とよぶ。信仰は、聖霊の働きとそれに応える人間の共同作業なのである。

 信仰をもつAさんには、聖霊が働いている。では、信仰しないBさんに、聖霊は働ていないのか。いや、働いている。まだその時期でないという神の計画で、信仰にストップがかかっているだけ。もちろん、救われるチャンスは十分にある。

 キリスト教は人間の精神活動を、聖霊の働きと考える。そんな人びとが集まったアメリカは、スピリチュアルの国なのだ。

 「信じるから救われる、のではなく、救われているから信じることができる、である。」 

 しかし御子はこう語っている。

マルコ16:15-16(新改訳)

15 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

16 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。

 「あなたはすでに救われているのですから、それを信じなさい」というメッセージを宣べ伝えなさい、とは命じてはいない。個人的な信仰が「救われるか」それとも「罪に定められるか」を条件づけているのは、聖書の言葉をそのまま読めば明らかである。

 むしろ聖書は、全ての人は御子の十字架の死によってそのままでは「すでにさばかれている」ゆえ、救われる必要があると啓示している。

ヨハネ3:17-18

17 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。

18 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。

 緑に囲まれたのどかな湖に浮かぶボートの中で、初夏の心地よい陽射しをうけて寝ている人を「救助しよう」とするだろうか。しかし、もしそのボートが滝に向かって流されていて、そのままでは滝つぼに呑み込まれてしまうならば、その人は救助が求めるだろう。

ローマ10:9ー13

9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。

10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。

11 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。

12 ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。

13 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。

 主なる神は天地創造の前から、御子において救いの計画を定められていた。それは「誰を救い誰を救わないか、決めるのは神」という予定論ではない。悪(この文脈では不信仰)は、神が創造したものではなく、自由意志を与えられた被造物が善、つまり神に信頼し、従い仕えるという選択を否定した当然の帰結である。

 神が定めた法則は、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」である。