人となって来たイエス・キリストを告白する霊
Ⅰヨハネ4:1-3
1 愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。
2 人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。
3 イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。
「神からの霊」「人となって来たイエス・キリストを告白する霊」と言っても、数々な霊があるというわけではなく、要するに聖霊のことである。なぜなら御子イエスの聖なる名によって父なる神が地上に遣わした霊は、聖霊の他ないからである。
ヨハネ14:26
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
ヨハネ15:26
わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。
ヨハネ16:13-14
13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
14 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。
つまり「人となって来たイエス・キリストを告白する霊」とは、ただ単に「イエス・キリストの名前を口にする」とか「イエス・キリストが人間としてこの地上に実在したという知識をもつ」という意味ではなく、聖霊によってイエス・キリストが真理であり、彼の教えもまた真理であることを証し、自分や組織を誇るのではなく聖霊が御子に栄光を帰するように御子の栄光だけを誇ることである。「告白する【ὁμολογέω homologeō, homo (same) + logos (said, topic, doctrine,cause, intent, talk)】」という動詞は、そのような意味に解釈すべきである。
無邪気ではいられない(9)不法の秘密はすでに働いている
ダニエル9:27
彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」
Ⅱテサロニケ2:1-10
1 さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。
2 霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。
3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。
4 彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。
5 私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。
6 あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。
7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。
8 その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。
9 不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、
10 また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。
現在、反キリストの顕れを引き止めている者が取り除かれる時、反キリストはこの世にかつてないかたちで出現し、その邪悪な力を示すことになる。その時、この「荒らす忌むべき者」「不法の人」「滅びの子」は多くの者と平和協定(現実には支配者と被支配者の隷属関係なのだが)を結び、その多くの者の中には特に政治国家イスラエルも含まれることになる。なぜなら、反キリストは現在では絶対にあり得ない「エルサレムの第三神殿建設」を不思議な力によってイスラエルのために実現するからである。勿論、反キリストの目的はイスラエル人たちを喜ばせるためなどではなく、その神殿において礼拝を捧げることになるイスラエル人が、最終的に反キリストを神として崇拝をすることを強要するためである。
これだけ聖書の中で預言されていて、キリスト者だけでなく一般的にも知識をもつ人々がいるにも関わらず、ほとんどの人々が騙されてしまうのだから、その偽りの力が如何に強大で狡猾であるか暗示している。
そしてイスラエル人たちのうちの残された者たちが反キリストの偽りに気付く段階まで、政治国家イスラエルは反キリストの魔的力に引きずり込まれることがわかっている以上、キリスト者が手放しで政治国家イスラエルを擁護し、協力関係を築くのは大変危険な選択だと思う。近い将来に現われる反キリストの霊、使徒パウロが言うところの「不法の秘密」はすでに働いているのだから。
Ⅱペテロ3:17-18
17 愛する者たちよ。それだから、あなたがたはかねてから心がけているように、非道の者の惑わしに誘い込まれて、あなたがた自身の確信を失うことのないように心がけなさい。
18 そして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かになりなさい。栄光が、今も、また永遠の日に至るまでも、主にあるように、アァメン。
残念ながらイタリアの福音派の教会も、近年驚くような勢いでシオニズムに走っている。
「霊の戦い」の世界観に対する警告記事(B・デウェイ牧師)の紹介
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現代の「霊の戦い」に関する危険な間違いを、論者自身の経験から指摘している非常に重要な警告記事である。私自身、過去にこのような教えを実践しているいくつかの教会や兄弟姉妹に出会い、また強迫観念による神経症を患ってしまった人たちを何人かサポートしたことがある。
勿論、私も聖書が啓示しているように悪霊の存在を知っているし、その超自然的働きを見たことがあるが、やはり御子イエスの十字架の勝利の力は、それらの悪霊の顕現とは比較にならないほど圧倒的であり、いのちに満ちているのである。
だからボブ・デウェイ牧師が語っているように、いかなる状況においても福音を、特に「十字架に架けられた御子イエス・キリストの福音」に全幅の信頼を寄せ、語り伝えていきたいと思う。ゴルゴタの丘の十字架にこそ歴史上最も悪霊の力が働いたのに対して、御子は完全に勝利したのであるから!
ローマ8:31-39(新改訳)
31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
使徒パウロのレトリックな問いかけに愚直に答えてみよう。
- 誰が私たちに敵対しているのか。悪魔である。(ヘブル語【שָׂטָן śâṭân】の原義は「敵対者」である。)
- 誰が私たちを訴えるのか。悪魔である。(ギリシャ語【διάβολος diabolos】の原義は「中傷する者」「偽って訴える者」である。)
- 誰が私たちを罪に定めようとするのか。悪魔である。
- 私達をキリストの愛から引き離そうとする「天使ら【ἄγγελος aggelos】」や「力ある者たち」もしくは「力」とは、いったい誰であろうか。悪魔と悪霊どもである!(罪を犯さなかった御使いたちは、私たちを御子の愛に近づけることはあっても、決して引き離そうとはしないからである。)
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって(それは私たちの賜物や力、能力、経験、知識によってではない!)、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者であることが保証されている。
その根拠は何だろうか。それは御子が十字架の上で私たち罪びとの救いの為に身代わりとなって、父なる神から「引き離されてくださった」、その愛と「十字架の勝利」のみに根差している。
わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。
ローマ5:5-8(新改訳)
5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
コロサイ2:14-15
14 神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。
15 そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。
もし御子イエスを大祭司として認めるならば
へブル7:11-28
11 もし全うされることがレビ系の祭司制によって可能であったら――民は祭司制の下に律法を与えられたのであるが――なんの必要があって、なお、「アロンに等しい」と呼ばれない、別な「メルキゼデクに等しい」祭司が立てられるのであるか。
12 祭司制に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずである。
13 さて、これらのことは、いまだかつて祭壇に奉仕したことのない、他の部族に関して言われているのである。
14 というのは、わたしたちの主がユダ族の中から出られたことは、明らかであるが、モーセは、この部族について、祭司に関することでは、ひとことも言っていない。
15 そしてこの事は、メルキゼデクと同様な、ほかの祭司が立てられたことによって、ますます明白になる。
16 彼は、肉につける戒めの律法によらないで、朽ちることのないいのちの力によって立てられたのである。
17 それについては、聖書に「あなたこそは、永遠に、メルキゼデクに等しい祭司である」とあかしされている。
18 このようにして、一方では、前の戒めが弱くかつ無益であったために無効になると共に、
19 (律法は、何事をも全うし得なかったからである)、他方では、さらにすぐれた望みが現れてきて、わたしたちを神に近づかせるのである。
20 その上に、このことは誓いをもってなされた。人々は、誓いをしないで祭司とされるのであるが、
21 この人の場合は、次のような誓いをもってされたのである。すなわち、彼について、こう言われている、「主は誓われたが、心を変えることをされなかった。あなたこそは、永遠に祭司である」。
22 このようにして、イエスは更にすぐれた契約の保証となられたのである。
23 かつ、死ということがあるために、務を続けることができないので、多くの人々が祭司に立てられるのである。
24 しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。
25 そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。
26 このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。
27 彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。
28 律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。
もし御子イエスを大祭司として認めるならば、必然的・不可避的に以下の真理を受け入れることになる。
御子は:
- 「アロンに等しい」ではなく、別な「メルキゼデクに等しい」祭司である。
- いまだかつて祭壇に奉仕したことのない他の部族、ユダ部族出身の祭司である。
- 肉につける戒めの律法によらないで、朽ちることのないいのちの力によって立てられた祭司である。
- イエスは更にすぐれた契約の保証である:κρειττονοςは比較級である。つまり律法による契約と比較して「さらに優れた」と主張している。
- 変らない祭司の務を持ちつづけておられる、もろもろの天よりも高くされている永遠の大祭司:つまりエルサレムの神殿も律法によるレビ族の祭司職も存在しなくなった西暦70年から現在に至るまで、御子は大祭司である。
- 律法の後にきた誓いの御言によって立てられた祭司である。
さらにモーセの律法に関する以下の真理に関しても受け入れるはずである。
- 祭司制に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずである。
- 前の戒めが弱くかつ無益であったために無効になった。
つまり御子イエス・キリストを自分の魂の救いのための大祭司と認めながら、モーセの律法の効力の領域に留まろうとすることは、ただの自己矛盾でしかないと言える。
ガラテヤ2:21
わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。
ガラテヤ5:4
律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。
御子イエス・キリストを聖霊によって知る時、様々な執着や偏見からの解放を体験する。
見かけで裁かず、正しい裁きをせよ。
ヨハネ7:23-24(新改訳)
23 もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。
24 うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。
律法学者やパリサイ人が主張していた、モーセの律法の適用から派生する「正しさ」と、御子イエスが主張する「正しさ」との間に、ギャップがあることが示されている。御子の言葉によれば、それは「うわべの正しさ」と「本質的な正しさ」の違いであった。
24節は「人をさばくな。自分がさばかれないためである。」(マタイ7:1)と共によく議論の時に引用されるが、この言葉は御子の言動を批判していた人々に対して御子自身が語ったものである。口語訳や新改訳では原文にはない【人を】という表現が挿入されており、一般論的な適用になりがちであるが、まず第一に適用する領域は、御子の言葉や働きに対して私たちがどのような基準でどう判断しているかを省察することではないだろうか。
私たちは聖書の啓示を「自分の正しさ」によって解釈し、裁いていないだろうか。聖霊を通して今も働かれている神のわざを、律法的な正しさや「肉」によって、つまり伝統や、数の法則、自分の感情・感覚を判断基準にして容認したり、称賛したり、否定・拒否したりしていないだろうか。
(前田訳)
見かけで裁かず、正しい裁きをせよ。
「家族」のゆくえ
ポーランド人作家 Igor Morskiの作品
ボートの上にいる母親と水面に映りこんでいる父親は、コインの裏と表のように一体で同じボートに乗っているようだが、実はそれぞれが反対の方向に行こうとオールを漕いでいる。画面を対角に切るオールから、力の対立と緊張が伝わってくる。
少し離れたところにいる少女がぬいぐるみを抱え、緊張を肌で感じているのか、あどけない表情のなかにも不安の陰りを見せる眼差しで、何かを訴えているかのようにこちらをじっと見ている。
今にも冷たい雨が降り出しそうな怪しい雲行きに対して、家族はずいぶん無防備に見える。
試しに上下を反転してみると、父親の方がより固い表情で、両腕や肩には力が入っているのがよくわかる。そして父親のボートの方には女の子の姿が写り込んでいないことも…
実に悲しい絵だが、 現代の「家族」の姿を映し出す鏡のように思える。
「家族」はどこに向かっているのだろうか。
イエス・キリストの系図(マタイによる福音書):呪いからの贖い
マタイ1:1-17
1 アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。
2 アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、
3 ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、
4 アラムはアミナダブの父、アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、
5 サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、
6 エッサイはダビデ王の父であった。ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、
7 ソロモンはレハベアムの父、レハベアムはアビヤの父、アビヤはアサの父、
8 アサはヨサパテの父、ヨサパテはヨラムの父、ヨラムはウジヤの父、
9 ウジヤはヨタムの父、ヨタムはアハズの父、アハズはヒゼキヤの父、
10 ヒゼキヤはマナセの父、マナセはアモンの父、アモンはヨシヤの父、
11 ヨシヤはバビロンへ移されたころ、エコニヤとその兄弟たちとの父となった。
12 バビロンへ移されたのち、エコニヤはサラテルの父となった。サラテルはゾロバベルの父、
13 ゾロバベルはアビウデの父、アビウデはエリヤキムの父、エリヤキムはアゾルの父、
14 アゾルはサドクの父、サドクはアキムの父、アキムはエリウデの父、
15 エリウデはエレアザルの父、エレアザルはマタンの父、マタンはヤコブの父、
16 ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。
17 だから、アブラハムからダビデまでの代は合わせて十四代、ダビデからバビロンへ移されるまでは十四代、そして、バビロンへ移されてからキリストまでは十四代である。
新約聖書を読み始める人が最初で出会うこの系図は、系譜学的観点よりも、イエス・キリストが「イスラエルの父アブラハムの子」であり、「イスラエルの王ダビデの子」であることを示す目的のために、抜粋して書き記されたものである。
実際、17節に三回「十四代」と書かれていることからわかるように、書き記されることなく省略された世代があり、上述の目的のために抜粋され象徴化された系図である。それは「はてしのない系図(endless genealogies)などに気をとられることもないように」(Ⅰテモテ1:4参照)、エンドレスなものに「御子イエスが預言によって約束されていたメシアである」ことを証する目的の「枠組み」をつけて提示されているものである。
だからこの系図を読むときは、その「枠組み」のなかに留まるべきだろう。この条件を基に、贖罪論的・救済論的観点からこの系図の読むと、とても興味深い。
例えば、通常なら系図に名を連ねることがなかった5人の女性、タマル、ラハブ、ルツ、「ウリアの妻」バテシバ、そしてマリヤである。それぞれの女性が、モーセの律法の観点から言えば、死罪に価していたり、呪いの対象だったり、神の民に属することができないカテゴリーに属していたりするのである。
1.タマル
まずタマルから見てみよう。この女性は創世記38章に、ヤコブの四男ユダの息子エルの嫁として登場する。そのエルが死に、当時の風習に従って夫となったエルの弟オナンも死んでしまった。次々と息子を失ったユダは、三男シラをタマルと結婚させることを恐れた。不当に寡婦として放っておかれたタマルは、ある日売春婦に変装し、ユダと肉体関係を持ち、身籠った。いくらタマルと関係を持った時、ユダの妻はすでに死んでいたとはいえ、あくまで「息子の嫁」である。
そしてモーセの律法には以下のように定められている。
レビ記18:15
あなたの嫁を犯してはならない。彼女はあなたの息子の妻である。彼女を犯してはならない。
レビ記20:12(新改訳)
人がもし、息子の嫁と寝るなら、ふたりは必ず殺されなければならない。彼らは道ならぬことをした。その血の責任は彼らにある。
つまり律法に基づけば、ユダもタマルも死罪によって裁かれる存在だったのである。勿論、ユダの時代にはモーセの律法は与えられていなかったが、神の倫理的基準は不変である。要するに同じ聖書の中に啓示されている律法に基づけば、タマルの名は系図に書き記されるべきものではなかったのである。
2.ラハブ
次にラハブである。このカナン人の女性は、イスラエルの民が40年間の放浪の末、約束の地にやっと入った時に、ヨルダン川の近くのエリコという城壁に囲まれた町で売春婦をしていた。主なる神はイスラエルの民が約束の地に入るにあたって、預言者モーセの口を通して、約束の地に住む原住民と結婚することを厳しく禁じていたのである。
申命記7:1-3
1 あなたの神、主が、あなたの行って取る地にあなたを導き入れ、多くの国々の民、ヘテびと、ギルガシびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、およびエブスびと、すなわちあなたよりも数多く、また力のある七つの民を、あなたの前から追いはらわれる時、
2 すなわちあなたの神、主が彼らをあなたに渡して、これを撃たせられる時は、あなたは彼らを全く滅ぼさなければならない。彼らとなんの契約をもしてはならない。彼らに何のあわれみをも示してはならない。
3 また彼らと婚姻をしてはならない。あなたの娘を彼のむすこに与えてはならない。かれの娘をあなたのむすこにめとってはならない。
それゆえラハブは本来、滅ぼされる運命にあったが、イスラエルの神を畏れ、その信仰によって救われた。
へブル11:31
信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。
3.ルツ
ルツはダビデ王の曽祖父にあたるボアズの妻で、モアブ人であった。モアブ人は、アブラハムのおいロトとロトの長女との近親相姦によって生まれた息子モアブ(מואב 「父によって」という意味)の子孫であり、やはり律法によってイスラエルの民の会衆に加わることが厳しく禁じられていた。
申命記23:3
アンモンびととモアブびとは主の会衆に加わってはならない。彼らの子孫は十代までも、いつまでも主の会衆に加わってはならない。
同じことは冒頭の系図の中に直接名前は書かれてはいないが、ソロモン王の妻でレハベアムの母である、アンモンびとのナアマについても言える。(こちらの記事『ロトのことも思い出しなさい(5)ルツとナアマ - an east window』参照)
4.「ウリアの妻」バテシバ
バテシバはラハブやルツ、ナアマとは違い、もともとイスラエルの民に属していたが、彼女は違う意味でやはり律法による死の呪いを背負っていた。ウリヤの妻だったにもかかわらず、夫が戦地で戦っている間にダビデ王と姦淫の罪を犯したからである。勿論、神に選ばれた王としてのダビデの責任ははるかに重いものだが、律法においては人妻バテシバの責任も明らかである。
レビ20:10
人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者があれば、その姦夫、姦婦は共に必ず殺されなければならない。
申命記22:22
もし夫のある女と寝ている男を見つけたならば、その女と寝た男およびその女を一緒に殺し、こうしてイスラエルのうちから悪を除き去らなければならない。
5.マリヤ
マタイ1:18-19
18 イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。
19 夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。
マリヤの場合も、もし神の霊による超自然的奇蹟という観点で見なければ、「不品行」として律法によって死罪に定められていた状況であった。だからこそ、婚約者ヨセフはひそかに婚約破棄をしようとしたのである。
申命記22:23-24
23 もし処女である女が、人と婚約した後、他の男が町の内でその女に会い、これを犯したならば、
24 あなたがたはそのふたりを町の門にひき出して、石で撃ち殺さなければならない。これはその女が町の内におりながら叫ばなかったからであり、またその男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたはこうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。
しかしたとえ婚約をしていなかったということにしたとしても、生れてくる子(この場合、イエス)は、「私生児」として扱われ、やはり律法によって神の民から除外される運命であった。
申命記23:2
私生児は主の会衆に加わってはならない。その子孫は十代までも主の会衆に加わってはならない。
この点を考慮すると、ユダヤ人たちが御子に語った言葉は、強烈な皮肉のニュアンスがあったのかもしれない。
ヨハネ8:41
あなたがたは、あなたがたの父のわざを行っているのである」。彼らは言った、「わたしたちは、不品行の結果うまれた者ではない。わたしたちにはひとりの父がある。それは神である」。
しかしこのような宗教権力者たちの揶揄は、御子イエスが安息日毎にシナゴーグにおける礼拝に参加し、聖書の巻物を朗読し(共同体によって選ばれ認められた者でしか朗読できなかった)、またエルサレムの神殿における祭に参加していたことでも、ただの「ゴシップ」であったことがわかる。
6.エコニヤ
そして上述の女性たちだけでなく、系図の中に記されている男性も、やはり「負い目をもつ」人々であった。前述の息子の嫁タマルを身籠らせたユダや、バテシバと姦淫の罪を犯したダビデ王は明らかであるが、特にバビロニア捕囚の時期のエコニヤ(11-12節)に関するストーリーは驚くものである。
彼はその不信仰の罪の故、以下のような呪いの預言が与えられていた。
エレミヤ22:30
主はこう言われる、「この人を、子なき人として、またその一生のうち、栄えることのない人として記録せよ。その子孫のうち、ひとりも栄えて、ダビデの位にすわり、ユダを治めるものが再び起らないからである」。
つまり御子イエスは遺伝子学的にはヨセフの子ではなくとも、系図学的には先祖エコニアの呪いを背負い、イスラエルの王としての栄誉を否定され、十字架の上で呪いとなられたのである。実際、御子が「ユダヤ人の王」であることを宣言したことが、公の罪状となったのである。
ヨハネ19:15;19-22
15 すると彼らは叫んだ、「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」。ピラトは彼らに言った、「あなたがたの王を、わたしが十字架につけるのか」。祭司長たちは答えた、「わたしたちには、カイザル以外に王はありません」。
19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上にかけさせた。それには「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書いてあった。
20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。それはヘブル、ローマ、ギリシヤの国語で書いてあった。
21 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに言った、「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この人はユダヤ人の王と自称していた』と書いてほしい」。
22 ピラトは答えた、「わたしが書いたことは、書いたままにしておけ」。
ガラテヤ3:10-14
10 いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。
11 そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。
12 律法は信仰に基いているものではない。かえって、「律法を行う者は律法によって生きる」のである。
13 キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。
14 それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。
このように、マタイの福音書に啓示されているイエス・キリストの系図は、律法による契約の呪いの下にあったイスラエルの民を贖い出すために、自らその呪いを負い、十字架の上で死に、復活した後に神の右に座し、「王なる王」として崇められることになる御子イエスによる神の計画を見事に啓示していると言える。
使徒2:29-36
29 兄弟たちよ、族長ダビデについては、わたしはあなたがたにむかって大胆に言うことができる。彼は死んで葬られ、現にその墓が今日に至るまで、わたしたちの間に残っている。
30 彼は預言者であって、『その子孫のひとりを王位につかせよう』と、神が堅く彼に誓われたことを認めていたので、
31 キリストの復活をあらかじめ知って、『彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。
32 このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。
33 それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。
34 ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている、『主はわが主に仰せになった、
35 あなたの敵をあなたの足台にするまでは、わたしの右に座していなさい』。
36 だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。