an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「十字架の友」としての教会

家庭に、学校に、仕事場に、「自分の居場所」を見出せない魂に

「場所ではない居場所」を提供する力と責任を教会はもっていると思う。

どこに行っても居心地悪さしか感じない、しかもその理由がわからない魂が、

仮面をかぶらず、身構えないでそのまま入っていくことができる繫がり。

 

学歴や肩書、社会的地位、職種、成績、収入…

消し去ることのできない過去の経験、現在の悲惨、そして将来への不安。

輝かしい過去、満ち足りた現在、安泰だと思える将来。

 

これらのものに依存していない繫がりをつくる資質が、

十字架に架けられた御子イエス・キリストを愛し、

従おうとする教会には与えられていると思う。

御子自身が宗教権力者たちから「罪びとの友」と揶揄されながらも、社会的に疎外されていた人々と共にいたのだから。

 

地域教会に傷ついた魂が近づかない時、この世の不信仰を嘆くよりも、むしろ私たちが本当に「十字架の友」として歩んでいるかどうかを自省すべきではないだろうか。

ガラテヤ6:14-16

14 しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。

15 割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。

16 この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように。