an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

奇蹟のうちに見る十字架の相

ヨハネ5:1-16

1 こののち、ユダヤ人の祭があったので、イエスはエルサレムに上られた。

2 エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。

3 その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。

4 それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕

5 さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。

6  イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。

7 この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。

8 イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。

9 すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。その日は安息日であった。

10 そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った、「きょうは安息日だ。床を取りあげるのは、よろしくない」。

11 彼は答えた、「わたしをなおして下さったかたが、床を取りあげて歩けと、わたしに言われました」。

12 彼らは尋ねた、「取りあげて歩けと言った人は、だれか」。

13 しかし、このいやされた人は、それがだれであるか知らなかった。群衆がその場にいたので、イエスはそっと出て行かれたからである。

14  そののち、イエスは宮でその人に出会ったので、彼に言われた、「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから」。

15 彼は出て行って、自分をいやしたのはイエスであったと、ユダヤ人たちに告げた。

16 そのためユダヤ人たちは、安息日にこのようなことをしたと言って、イエスを責めた。

 「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい

 38年間病気を患い身動き取れないでいた男のことを完全に理解していた御子は、この命令による奇蹟が、偽善者たちのどのような反応をもたらすかも知っておられたはずである。「起きて、そして歩きなさい」と命じていたならば、男は同じように癒され、歩けるようになっていただろうし、ユダヤ人たちに「きょうは安息日だ。床を取りあげるのは、よろしくない」などとナンセンスなことを言わせる隙も与えなかっただろう。

 御子はユダヤ人たちが殺意を抱くようになることを十分に自覚しながらも、敢えて「あなたの床を取りあげ」と命令したように思える。16節は日本語訳だとニュアンスが訳出されていないが、KJVやイタリア語訳だと、「責める」「迫害する」以外にも、「殺そうとした」ということ書かれている。

16 And therefore did the Jews persecute Jesus, and sought to slay him, because he had done these things on the sabbath day. 

 その後すぐに御子が証ししたご自身と御父との関係でも、その御子の意図は明らかである。

ヨハネ5:17-18

17 そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。

18 このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。それは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである。 

 御子は完全にご自身の十字架の死を意識し、その「父から受けた務め」を見定めた上で語り、奇蹟を行っていたのである。

 十字架の死は偶発的な悲劇では決してなく、御子は訳わからないで暴虐に巻き込まれた「哀れな犠牲者」ではない。御子は永遠の霊によってご自身の命を捧げたのである。

へブル9:14

永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。 

ヨハネ10:17-18

17 父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。

18 だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。

へブル10:5-10

5 それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、からだを備えて下さった。

6 あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。

7 その時、わたしは言った、『神よ、わたしにつき、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、御旨を行うためにまいりました』」。

8 ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、

9 次に、「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」とある。すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。

10 この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。 

  十字架は御子の啓示の本質である。

ブログのデザイン変更

 先日アカウントを開設したツイッターをサイドバーに埋め込むついでに、2013年5月の作成時から使ってきたブログ自体のデザインをより文章が読みやすいシンプルなものに変更した。

 本当はヘッダーの風景写真をキープしたかったのだが、ブログタイトルとの位置調整が変更できなかったので、やむなく画像を削除することにした。しかしとても気に入っているので、挿入するいい方法がわかったら再度使いたいと思っている。

 ツイッターに関しては、正直言うとそのシステムをまだよく理解していないし、ビジュアル的にもあまり美しいとは思えないが、ブログの記事の更新の知らせや、記事にする前の段階の観察や考え、思いなどを書いてみたいと思っている。

 

シンガポールのドミニク・ヤオ氏に関する検証


Rev Dominic Yeo - When the Brook Dries Up -1of3 - upgrade from condo to landed house

 添付したビデオはシンガポールのトリニティー・クリスチャン・センター(Trinity Christian Centre)の主任牧師であり、シンガポールのアッセンブリー・オブ・ゴッド教団の理事長でもあるドミニク・ヤオ氏が、「信仰」をテーマに話しているものだが、特に7分50秒からの「デモンストレーション」に注目していただきたい。

f:id:eastwindow18:20171010163603p:plain

  おそらくヤオ氏自身は意識していないだろうが、私にはこのシンボルがとても暗示的に見える。というのは、客観的に見てこのシンボルが表しているのは「相互依存」であり、それは聖書が啓示する信仰の本質とは全く異なるからである。勿論、信仰生活には信仰者同士の相互的関与が不可欠であるが、真の信仰は隣人の信仰の在り方に依存するわけではなく、たとえ私が信仰を失うことがあっても、私の隣りにいる信仰者は聖書の真理に基づいて、個人的に神への信頼を保つことができるのである。

 そもそも聖霊によって新約聖書に啓示されている真理を、ショーなどで使い古された手法で説明する必要があるのか、甚だ疑問である。おそらく旧約聖書の預言者たちがしばしシンボリックな行動で神から直接受けたメッセージを伝えていたというのが、正当化の根拠として利用されているのだろう。よくあるレトリックである。

 先述のトリニティー・クリスチャン・センターのサイトの牧師プロフィールには、「強烈な使徒的油注ぎを受けた預言者として広く認められている」とある。

f:id:eastwindow18:20171010160012p:plain

 

 以下にビデオは2012年9月8日のもののようだが、同じシンガポールのシティー・ハーベスト・チャーチ(CHC)のコン・ヒー牧師が説教し、その後、舞台上でコン・ヒー氏の妻であり、牧師、そしてポップ歌手のホー・ヨースン(Reverend Ho Yeow Sun、スン・ホーとも呼ばれている)が歌っている間、舞台下ではドミニク・ヤオ氏がコン・ヒー氏と共に、横一列に並んだ人々に「按手」し、後ろに倒れるまで続けているのがわかる(13分10秒から)。


Rev Dominic Yeo - 5 Keys To A Breakthrough - 5 of 6 (Sep 8, 2012)


Rev Dominic Yeo - 5 Keys To A Breakthrough - 6 of 6 (Sep 8, 2012)

 コン・ヒー氏は妻の歌手活動(ネット上で「Sun - Fancy Free」と検索すると彼女のビデオクリップを見ることができるが、率直に言って観ない方がいいと思う)のために膨大な額の資金を着服した罪で、2015年10月に8年の有罪判決を受けている。

 逮捕されたのは2012年6月27日とあるので、上のビデオはその逮捕され保釈後のものなのだろうか。確認が必要である。(→こちらの2012年10月15日付けの記事には、「しかし、牧師は罪を認めておらず、保釈後は以前と同様に説教を続けている。」とあるので、9月8日に録画されたビデオなのだろう。)

 要するに2012年9月8日の集会において、ヤオ氏は人々の頭に按手しながら、自分の隣りで一緒に祈っているコン・ヒー氏が約2か月前に逮捕されていたことを認識していたことになる。

 

 いずれにせよ、使徒パウロが伝道者テモテに対して書き記した訓戒「また、だれにでも軽々しく按手をしてはいけません。また、他人の罪にかかわりを持ってはいけません。自分を清く保ちなさい。」(Ⅰテモテ5:22)は、実に摂理的である。

 勿論、私の意見はヤオ氏個人に対する個人的批判というレベルより、もっと根の深い部分に対する危機感によるものである。

 

  以下、ドミニク・ヤオ氏をはじめとする新使徒運動と、日本のアッセンブリー教団との関わりに関する警告の記事である。

AGを侵食する新使徒運動 : 村上 密 Blog

日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の危機 : 村上 密 Blog

イスラエル産のナツメヤシの実(デーツ)

f:id:eastwindow18:20171009191037j:plain

 近所のスーパーにイスラエル産のナツメヤシの実(デーツ)が売っていたので、思わず買ってしまった。今まで見たナツメヤシの実の中では一番大きい種類のもので、大人の手の親指ぐらいの太さがある。味は何となく干し柿や甘納豆のような独特の甘さをもつ。緑茶とも合うのではないだろうか。

 聖書においてナツメヤシ(口語訳や新改訳では【しゅろ】とも呼ばれている)は、多く言及されている。

 仮庵の祭の時にはその枝を使うように命じられていた。

レビ記23:40

初めの日に、美しい木の実と、なつめやしの枝と、茂った木の枝と、谷のはこやなぎの枝を取って、七日の間あなたがたの神、主の前に楽しまなければならない。

 士師の時代には女預言者であったデボラがその下に座っていた「デボラのしゅろの木」と呼ばれるナツメヤシがあった。

士師記4:5

彼女はエフライムの山地のラマとベテルの間にあるデボラのしゅろの木の下に座し、イスラエルの人々は彼女のもとに上ってきて、さばきをうけた。 

 世界最古の町とも言われているエリコは、「しゅろの町」と呼ばれていた。

申命記34:3

ネゲブと低地、すなわち、しゅろの町エリコの谷をゾアルまで示された。 

 また詩篇においては、「祝福された義人」のシンボルとして記述されている。

詩篇92:12

正しい者はなつめやしの木のように栄え、レバノンの香柏のように育ちます。 

  御子が地上宣教の最後の過ぎ越しの祭のためにエルサレムに入城したとき、群衆はナツメヤシの枝を手にとり、御子を祝福しながら迎えた。

ヨハネ12:13

しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ、「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」。 

 黙示録に啓示されている天上の幻においては、勝利や平和のシンボルである。 

黙示録7:9-10

9 その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、

10 大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。  

  ちなみにヘブライ語では【תָּמָר / tâmâr /タマル】で、ユダの子の妻(創世記38:6)やダビデの娘(Ⅱサムエル13:1-22)、アブサロムの娘(Ⅱサムエル14:27)など女性の名前としても使われている。

 

私たちの理解を超える御子の働きかけ

ヨハネ5:1-14

1 こののち、ユダヤ人の祭があったので、イエスはエルサレムに上られた。

2 エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。

3 その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。

4 それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕

5 さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。

6 イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。

7 この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。

8 イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。

9 すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。その日は安息日であった。

10 そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った、「きょうは安息日だ。床を取りあげるのは、よろしくない」。

11 彼は答えた、「わたしをなおして下さったかたが、床を取りあげて歩けと、わたしに言われました」。

12 彼らは尋ねた、「取りあげて歩けと言った人は、だれか」。

13 しかし、このいやされた人は、それがだれであるか知らなかった。群衆がその場にいたので、イエスはそっと出て行かれたからである。

14 そののち、イエスは宮でその人に出会ったので、彼に言われた、「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから」。 

なおりたいのか

  御子は、べテスダの池の五つの廊の中で横たわっていた大勢の病人が、プールサイドのテラスでカクテル片手に日光浴を楽しんでいた観光客ではないことぐらい知っていたはずである。そこにいた人々は、自分がいつか癒されることを待ち望んでいたことは、誰の目にも明らかであった。

 その時点ではどこの誰かも知らない男に、突然「なおりたいか」と問いかけられたこの病人が、「ハァ、何言ってんだ、この男は。当たり前だろう」と心の中でイライラしながら考えたとしても、誰も彼のことを非難することはできないだろう。

 

起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい

  御子はこの命令をべテスダの池の近くにいた大勢の病人たちの中から、決して自力では歩くことができなかった一人の男にした。目の見えない人や耳の聞こえない病人もいたはずである。足の不自由な人々さえも他にいたようである。彼らは「なおりたい」という思いがなかったのだろうか。同じように横たわっていたこれらの病人は、「起きて、そして歩きなさい」という言葉と共に、癒しを必要としていなかったのだろうか。

 しかし御子はその時、大勢の病人の中からたった一人だけ、しかも38年間もの病期によって自分では決して歩くことができなかった一人の男に、「起きて、歩きなさい」と命じられた。

 御子がもし望んだなら、たった一声で、いや一言も言わずに、そこにいた全員のあらゆる病気を一瞬で癒すこともできた。しかし御子は、この一人の男だけを癒し、その場を立ち去った。

 しかもユダヤ人の偽善者たちが「きょうは安息日だ。床を取りあげるのは、よろしくない」と難癖つけることを十分知っていたはずなのに、ただ「起きて、歩きなさい」とは言わず、敢えて「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」と命じ、しかも安息日に癒しの奇蹟を行った。

 

ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから

  御子がこの深刻な忠告を語った時、癒しを受けた男が自分の足で必死に自分を癒してくれた見知らぬ人物を探しまくり、やっとのことで見つけたのではなかった。御子の方がこの男を探し、見つけて訓告したのである。

(新改訳)

その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。

 

 もしこの記事を読んでいるあなたが、何か思いがけない感じで聖書の言葉に出会い、よくわからないけれど不思議と何度かそれに触れ、何となく自分の心に引っかかるものを感じているというならば、あなたに語りかけられている「静かな声」を決して軽くあしらわないでほしい。

 主なる神は生きていて、あなたが想像する以上にあなたの魂の見えない必要を深くご存じであり、あなたが理解できる以上に「いつ、どこで、何を、どのように」あなたに働きかけるべきかを完全に知っておられるからである。

へブル3:7-8

7 だから、聖霊が言っているように、「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、

8 荒野における試錬の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。 

 

関連記事:

三位一体的神観を啓示する新約聖書の数々の聖句

 以下の数々の聖句は、様態論的神観(または「サベリウス主義」と呼ばれ、神には三人格があるのではなく、父、子、聖霊は三つの顕現体であり、その区別は様態の見せる現象にすぎないという説である。旧約時代には父として啓示され、十字架の死を通して全人類の罪を贖うために御子イエスとして、キリストの復活の後の教会時代には聖霊として顕れたという考える)を否定し、神の三位一体性を啓示しているだけでなく、その三位一体の神と信仰者との深い関係性を示している。

マタイ3:16-17

16 イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。

17 また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

マタイ28:19-20

19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、

20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

ルカ24:49

見よ、わたしの父約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。

 ここで話している「わたし」は御子であり、「わたしの父」は御父、「約束されたもの」とは御霊のことである。

使徒2:33

それで、イエスは神の右に上げられ、から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。

ローマ15:16

このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、の福音のために祭司の役を勤め、こうして異邦人を、聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためである。 

Ⅰコリント12:4-6

4 霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。

5 務は種々あるが、は同じである。

6 働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさるは、同じである。

Ⅱコリント1:21-22

21 あなたがたと共にわたしたちを、キリストのうちに堅くささえ、油をそそいで下さったのは、である。

22 神はまた、わたしたちに証印をおし、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜わったのである。

Ⅱコリント13:13

主イエス・キリストの恵みと、の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。

ガラテヤ4:6

このように、あなたがたは子であるのだから、はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子を送って下さったのである。

エペソ3:14-19

14 こういうわけで、わたしはひざをかがめて、

15 天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なるに祈る。

16 どうかが、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、

17 また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、

18 すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、

19 また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。

 使徒パウロのこの祈りは、これだけで何度もメディテーションできるほど深遠である。父なる神の私たちに対する願いや目的、手段、完成などが啓示されている。特に私たちがキリストの愛を実体験として知ることによって(「人知」を遙かに超えるキリストの愛を「知る」ことができる!)、私たちが「神に満ちているもののすべてによって満たされる」という真理は、私たちの魂を震わすほど崇高なものではないだろうか。

Ⅱテサロニケ2:13-14

13 しかし、主に愛されている兄弟たちよ。わたしたちはいつもあなたがたのことを、神に感謝せずにはおられない。それは、があなたがたを初めから選んで、御霊によるきよめと、真理に対する信仰とによって、救を得させようとし、

14 そのために、わたしたちの福音によりあなたがたを召して、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせて下さるからである。

Ⅰペテロ1:1-2

1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち、

2 すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。

ユダ1:20-21

20 しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、

21 の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。 

新約聖書における家の教会

 新約聖書において記録されている「教会【ἐκκλησία ekklēsia】」は、決して物質的な建造物を意味しておらず、「神の恵みによってこの世から呼び出された信仰者の集まり」のことである。つまり「信仰者が集まって礼拝を捧げること」が重要なのであって、物理的な場所はどこであってもよかったのである。

 実際、ある地域の個人住宅において兄弟姉妹が集っていた証しが、いくつの書き記されている。

  • ローマの教会:天幕造りの職人夫婦であったプリスカとアクラの家において集っていた。

ローマ16:3-5

3 キリスト・イエスにあるわたしの同労者プリスカとアクラとに、よろしく言ってほしい。

4 彼らは、わたしのいのちを救うために、自分の首をさえ差し出してくれたのである。彼らに対しては、わたしだけではなく、異邦人のすべての教会も、感謝している。

5 また、彼らの家の教会にも、よろしく。わたしの愛するエパネトに、よろしく言ってほしい。彼は、キリストにささげられたアジヤの初穂である。 

  • コロサイの教会:小アジア(現在のトルコ)のコロサイでは、ピレモンの個人宅で集っていた。「家にある教会」であって「家が教会」ではないことに注意。

ピレモン1:1-2

1 キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する同労者ピレモン、

2 姉妹アピヤ、わたしたちの戦友アルキポ、ならびに、あなたの家にある教会へ。 

  • ラオデキヤの教会:コロサイの町から約17キロメートルの距離にある町ラオデキヤでは、ヌンパという信仰者の家で集っていた。アルキポ(コロサイのピレモンの息子ではなかったかと言われている)が「主にあって受けた務め」、おそらく長老として集まりの秩序を保つ責任が与えられていたと思われる。

コロサイ4:15-17

15 ラオデキヤの兄弟たちに、またヌンパとその家にある教会とに、よろしく。

16 この手紙があなたがたの所で朗読されたら、ラオデキヤの教会でも朗読されるように、取り計らってほしい。またラオデキヤからまわって来る手紙を、あなたがたも朗読してほしい。

17 アルキポに、「主にあって受けた務をよく果すように」と伝えてほしい。

f:id:eastwindow18:20171006183920j:plain

 ちなみにラオデキヤからリクス川を挟んで約10キロメートル離れたヒエラポリスにおいても信仰者が集っていたようである。

コロサイ4:13

わたしは、彼があなたがたのため、またラオデキヤとヒエラポリスの人々のために、ひじょうに心労していることを、証言する。 

 このように比較的近い距離にあった3つの町(コロサイ、ラオデキヤ、ヒエラポリス)でそれぞれ信仰者たちが集い、使徒パウロの手紙が共有されるなど、相互に親密な交わりがあったことが記されている。

  • エペソの教会:使徒パウロが第三次伝道旅行期間中、小アジアのエペソにおいて約三年間宣教活動していたが、そのときアクラとプリスカの個人宅で集っていたようである。

Ⅰコリント16:19

アジヤの諸教会から、あなたがたによろしく。アクラとプリスカとその家の教会から、主にあって心からよろしく。 

  使徒行伝19章によると、使徒パウロはエペソに行った時、最初の3か月はいつもの通りまずユダヤ人の会堂で伝道し、そのユダヤ人たちが福音を受け入れなかったので、今度はツラノの講堂(一種の学校だったと言われている)を借りて、そこで2年間毎日福音を伝えた。「アジヤに住んでいる者は、ユダヤ人もギリシヤ人も皆、主の言を聞いた」という記述から、相当の数の人々が小アジア各地から集まって、入れ代わり立ち代わり毎日の集会に参加していたことが想像できる。

使徒19:8-10

8 それから、パウロは会堂にはいって、三か月のあいだ、大胆に神の国について論じ、また勧めをした。

9 ところが、ある人たちは心をかたくなにして、信じようとせず、会衆の前でこの道をあしざまに言ったので、彼は弟子たちを引き連れて、その人たちから離れ、ツラノの講堂で毎日論じた。

10 それが二年間も続いたので、アジヤに住んでいる者は、ユダヤ人もギリシヤ人も皆、主の言を聞いた。 

 その後、使徒パウロがエルサレムに向かう途中、ミレトでエペソの教会の長老たちに会い、話をした内容から判断すると、ツラノの講堂における二年間の宣教活動の後、さらに9か月ほどエペソの町で宣教し続けたことがわかる。おそらくその期間、上述のアクラとプリスカの個人宅で信仰者たちが集まっていたのだと思われる。

使徒20:17;31

17 そこでパウロは、ミレトからエペソに使をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。

31 だから、目をさましていなさい。そして、わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい。  

 使徒パウロをはじめ、多くのユダヤ人キリスト者たちは、元々安息日に会堂に出向いて礼拝を捧げることに慣れていた。だから彼らが「自分たちが集まるための教会堂を立てよう」と考えても不思議ではなかっただろう。しかも会堂に集まっていたユダヤ教徒たちが嫉妬するほど多くの人々が集まっていたのである。「ユダヤ人の会堂よりも立派な教会堂を建てよう」と言い出す人々が、あるいはいたかもしれない。

 しかし上述の新約聖書の記録を読むと、使徒パウロたちがそのような建造物にこだわらず、状況に応じて柔軟に対応し、そして何よりも一番重要な点を優先して、キリストの福音を伝えるという使命のために非常に実践的な選択をしていたことがわかる。

 それは特定な場所や時期・時間に制限されることのない生ける神を賛美し、その御心に従う在り方に相応しいものではないかと思う。

ヨハネ4:21-24

21 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。

22 あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。

23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。

24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。

使徒7:48-50

48 しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っているとおりである、

49 『主が仰せられる、どんな家をわたしのために建てるのか。わたしのいこいの場所は、どれか。天はわたしの王座、地はわたしの足台である。

50 これは皆わたしの手が造ったものではないか』。 

 重要なことは「〇〇教会」と呼ばれる建造物において集うか、それとも「XX兄弟の個人宅」で集うかではない。どこにおいても決して目に見える要素に影響されることなく、キリストの御名において、キリストの栄光だけを求めて、聖霊の導きによって父なる神を礼拝を捧げることではないだろうか。

マタイ18:19-20

19 また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。

20 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。

ピリピ3:3

神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。

ユダ1:20-21

20 しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、

21 神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。