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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

シリア・アサド大統領に対するインタビュー

news.tbs.co.jp

 同じ映像でYoutubeにアップロードされたもの。


シリア・アサド大統領、単独インタビュー(全録)

 いつもながらアサド大統領のロジックの健全さは、一国の主権国家の代表責任者、しかも自国が内外から激しく攻撃を受け、激しい困難の中にある国の責任者として、称賛に価するものだと思う。

 根拠のない悪口や人格攻撃など口にせず(平和な時でも口角泡を飛ばして政敵や論敵を罵る者もいるが・・・)、インタビュー記者が日本の戦後復興の経験の自負心によって語った「オファー」にも、簡単に真に受けたり媚を売ったりせず、日本とシリア間の政府レベルの国交が現在ないこと(在シリア日本大使館は退去している)、援助を提供している友好国が少なくないこと、そして何より自国民に再建の能力と意志があることをしっかりと主張し、さらに「最も難しい再建問題」、つまり争いによって憎しみに染まり傷ついた国民の心を如何に「再建」するかまで言及している。

 政治家としては勿論のこと、一人の人間として彼から学ぶべきことは多いのではないだろうか。

 

関連記事:

律法の否定命令に関する省察(2)

創世記2:8-9;15-17

8 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。

9 また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。

15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。

16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。

17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

 前回の記事において、誘惑に対して無防備なアダムの目の前に善悪を知る木を置き、「この木からは取って食べてはならない」という唯一の否定命令を下すのは、一見、不当に思えるということを書いた。しかしよく考えてみれば、もしその唯一の「してはいけないこと」がなかったとしら、そしてすべてを心のままに行うことができ、すべての木から好きなものを好きな時に好きなだけ食べることができ、すっとそうやって生き続けるのであったとしたら、現状の私たちには想像することは難しいことだが、自分の存在や行動、そして自由の意味さえ希薄になってしまうのではないだろうか。つまり心のままに何でもしていいのなら、それをしてもしなくても本質的に何も変わらないのではないか。そうすると、本人の意志によって選択する意味も限りなく無に等しいものとならないだろうか。

 しかしそこに一つの否定命令が課されることによって、対比が生れ、与えられた自由に対する自覚が目を覚ますのである(この領域は、さらに哲学的なアプローチで展開できると思うが、意図することとずれてくるので控えたい)。よって否定命令自体は悪ではなく、善なる神が備えた善なるもので、悪はその戒めを背くことにあるのである。

 そしてエバは蛇の誘惑を受け、主なる神が課していた唯一の否定命令に背き、アダムと共に禁じられていた木の実を食べ、罪を犯した。主なる神はそれを望んでいたのだろうか。否、そうではない。主なる神はしかし、全てを知っておられた。だからこそ、罪を犯したアダムとエバに御子による贖いの計画を啓示し、動物の皮で彼らの裸の恥を覆ったのである。

創世記3:15;21

15 わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。

21 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。 

 神の僕モーセを通して十戒を中心とした律法がイスラエルの民に与えられたが、その律法に関する定義と目的は、新約聖書において数多く啓示されている。

ローマ3:19-20

19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。

20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。 

ローマ4:15

いったい、律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはない

ローマ5:13

というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである

ローマ5:20

律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた

ローマ7:7-13

7 それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。

8 しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである

9 わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、

10 わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。

11 なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。

12 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである

13 では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。

ガラテヤ3:19;23-24

19 それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。

23 しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。

24 このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。

Ⅰテモテ1:8-10

8 わたしたちが知っているとおり、律法なるものは、法に従って用いるなら、良いものである。

9 すなわち、律法は正しい人のために定められたのではなく、不法な者と法に服さない者、不信心な者と罪ある者、神聖を汚す者と俗悪な者、父を殺す者と母を殺す者、人を殺す者、

10 不品行な者、男色をする者、誘かいする者、偽る者、偽り誓う者、そのほか健全な教にもとることがあれば、そのために定められていることを認むべきである。 

Ⅰヨハネ3:4(新改訳)

罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。

ヤコブ2:10-11

10 なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。

11 たとえば、「姦淫するな」と言われたかたは、また「殺すな」とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。

 神が聖であり義であるように、神の律法、つまり聖なる神が人間に求めているものは、聖であり正しく、善いものである。それは以下の聖句によって要約されていると言える。

レビ記19:2

イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。 

 上に引用した新約聖書の聖句のうち、特に使徒パウロの言葉は十戒の十番目の戒めを引用しているので、律法の否定命令の働きを考察する上で有益である。

律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。

すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。

 つまりこの否定命令「むさぼるな」は、心の中に眠っている(パウロは「死んでいる」という表現を使っている)、または隠れているあらゆる貪欲に光を当て、どこまでも追い詰める働きをするのである。

 ある人はここでこう言うかもしれない。「なぜ、眠っている獣を起こすようなことをするのだ。そっとしておけばいいではないか。」「かたちのないものは、そのまま曖昧にしておけばいいではないか。」

 しかし私たちの心のうちで今眠っていようとも、罪はやがて必ず実を結び、そして死をもたらす。人の心を知る神にはすべてが明らかなのである。

エレミヤ17:9-10

9 心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。

10 「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。 

ヤコブ1:14-15

14 人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。

15 欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。 

ローマ6:23a

罪の支払う報酬は死である。

 アダムが神の命令に背き罪を犯したことで、罪がこの世に入り、その罪のゆえ死が支配するに至った。律法はそれを明らかにするため、そしてその罪と死の支配から解放する神の恵みの到来に備えて与えられたのである。

ローマ5:12-14;20

12 このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。

13 というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。

14 しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。

20 律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。

 十戒のそれぞれ戒めに対して、それを背いた場合の断罪、しかも死罪が啓示されているのは、そのためである。

1.あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。

出エジ22:20

主のほか、他の神々に犠牲をささげる者は、断ち滅ぼされなければならない。

申命記6:13-15

13 あなたの神、主を恐れてこれに仕え、その名をさして誓わなければならない。

14 あなたがたは他の神々すなわち周囲の民の神々に従ってはならない。

15 あなたのうちにおられるあなたの神、主はねたむ神であるから、おそらく、あなたに向かって怒りを発し、地のおもてからあなたを滅ぼし去られるであろう。

2.あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。

申命記27:15

『工人の手の作である刻んだ像、または鋳た像は、主が憎まれるものであるから、それを造って、ひそかに安置する者はのろわれる』。民は、みな答えてアァメンと言わなければならない。 

3.あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。

レビ記24:15-16

15 あなたはまたイスラエルの人々に言いなさい、『だれでも、その神をのろう者は、その罪を負わなければならない。

16 主の名を汚す者は必ず殺されるであろう。全会衆は必ず彼を石で撃たなければならない。他国の者でも、この国に生れた者でも、主の名を汚すときは殺されなければならない。 

4.安息日を覚えて、これを聖とせよ。

民数記15:32-36

32 イスラエルの人々が荒野におるとき、安息日にひとりの人が、たきぎを集めるのを見た。

33 そのたきぎを集めるのを見た人々は、その人をモーセとアロン、および全会衆のもとに連れてきたが、

34 どう取り扱うべきか、まだ示しを受けていなかったので、彼を閉じ込めておいた。

35 そのとき、主はモーセに言われた、「その人は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で撃ち殺さなければならない」。

36 そこで、全会衆は彼を宿営の外に連れ出し、彼を石で撃ち殺し、主がモーセに命じられたようにした。 

5.あなたの父と母を敬え。

出エジ21:15;17

15 自分の父または母を撃つ者は、必ず殺されなければならない。

17 自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。 

レビ記20:9

だれでも父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。彼が父または母をのろったので、その血は彼に帰するであろう。 

6.あなたは殺してはならない。

出エジ21:12

人を撃って死なせた者は、必ず殺されなければならない。 

7.あなたは姦淫してはならない

レビ記20:10

人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者があれば、その姦夫、姦婦は共に必ず殺されなければならない。 

8.あなたは盗んではならない。

出エジ21:16

人をかどわかした者は、これを売っていても、なお彼の手にあっても、必ず殺されなければならない。 

申命記24:7

イスラエルの人々のうちの同胞のひとりをかどわかして、これを奴隷のようにあしらい、またはこれを売る者を見つけたならば、そのかどわかした者を殺して、あなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。 

(これは誘拐、そして人身売買の例である)

9.あなたは隣人について、偽証してはならない。

申命記19:15-19

15 どんな不正であれ、どんなとがであれ、すべて人の犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない。

16 もし悪意のある証人が起って、人に対して悪い証言をすることがあれば、

17 その相争うふたりの者は主の前に行って、その時の祭司と裁判人の前に立たなければならない。

18 その時、裁判人は詳細にそれを調べなければならない。そしてその証人がもし偽りの証人であって、兄弟にむかって偽りの証言をした者であるならば、

19 あなたがたは彼が兄弟にしようとしたことを彼に行い、こうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。

10.あなたは隣人の家をむさぼってはならない。 

 興味深いことに、この戒めに関しては直接的な断罪を示す言葉が律法の中にない(もしかしたら私が知らないだけかも知らないが)。しかしそもそもこの「むさぼる」というのは、外面的な「行為・行動」だけでなく、「心の中の欲望」や「頭に浮かぶ思考」に関する戒めである。つまり律法は、実際に行動を起こす前の段階の内的悪まで光を当てるのである。

 これは主イエスの教えでも確認できる。

マタイ5:27-28

27 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

28 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 

マタイ15:16-20

16 イエスは言われた、「あなたがたも、まだわからないのか。

17 口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。

18 しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。

19 というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、

20 これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」。 

 

 このように、律法は神の意志であると同時に、神の断罪でもあり、その究極は律法の呪い、そして死である。神は死の支配が人間の心に宿る罪の報酬であり、その罪の性質を徹底的に知らしめるために律法を備えたのである。

 そして時が満ち、御子イエスを律法の下に遣わし、罪びとの身代わりとなって律法の呪いである十字架の死を通して、信じる者の赦しと救いをもたらす神の恵み、永遠の命を啓示されたのである。

ガラテヤ3:10-14

10 いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。

11 そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。

12 律法は信仰に基いているものではない。かえって、「律法を行う者は律法によって生きる」のである。

13 キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。

14 それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。 

ローマ5:20-21

20 律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。

21 それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。 

律法の否定命令に関する省察(1)

出エジプト19:25;20:1-17

25 モーセは民の所に下って行って彼らに告げた。

1 神はこのすべての言葉を語って言われた。

2 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。

3 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。

4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。

5 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、

6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

7 あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。

8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。

9 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。

10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。

11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。

12 あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。

13 あなたは殺してはならない。

14 あなたは姦淫してはならない。

15 あなたは盗んではならない。

16 あなたは隣人について、偽証してはならない。

17 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。

 これはエジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルの民が、シナイ山の麓において聞いた戒めの言葉で、一般的に「モーセの十戒」と呼ばれているものである。

  1. あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
  2. あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。
  3. あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。
  4. 安息日を覚えて、これを聖とせよ。
  5. あなたの父と母を敬え。
  6. あなたは殺してはならない。
  7. あなたは姦淫してはならない。
  8. あなたは盗んではならない。
  9. あなたは隣人について、偽証してはならない。
  10. あなたは隣人の家をむさぼってはならない。

 今回改めて考えさせられた点が、第4戒「安息日を覚えて、これを聖とせよ」と第5戒「あなたの父と母を敬え。」以外は、全て否定形の命令「~してはならない」であることである。しかも第4戒も、その中で「なんのわざをもしてはならない」とあるので、肯定形の命令は厳密に言えば第5戒だけであることになる。

 神の律法の核であり、基礎である十戒の九割が否定命令によって構成されているのは、非常に意味深いことではないだろうか。肯定命令「~しなさい」と否定命令「~してはならない」の違いは、特に受け取る側の心理的作用を考えると決して小さくない。例えば、「廊下では歩きなさい」と命じるのと「廊下では走ってはならない」と命じるのでは、その要求することは同じであっても、命令を受ける側に与えるニュアンスは異なる。「歩きなさい」においては「廊下を歩く以上のスピードで移動することはできない」ことは暗示的であるが、「走ってはならない」は「廊下を歩くという必然的行動以上のスピードで移動する潜在的可能性を全面的に否定すること」を意味し、直接的である。

 しかも原文においては、日本語の文法上否定形が文尾の変化によるのとは対照的に、肯定・否定の違いが文頭における否定語の有無によるので、その否定命令のニュアンスはより強く、ダイレクトである。

 なぜ主なる神はこのような否定命令の戒めを選んだのだろうか。この点を考察するには、やはりまず原点であるエデンの園に帰る必要があるだろう。

創世記2:16-17

16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。

17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。 

 主なる神はエデンの園においてあらゆる自由をアダムに対して与えていたが、唯一「善悪を知る木からは取って食べてはならない」という否定命令を与えた。想像してみてほしい。アダムは園の中央にある一本の木、自分の目の前にある善悪を知る木から「だけ」は実を取って食べてはならない、と命じられていたのである。

 「取って食べてはならない」と命じられたら「取って食べたとしたら」と想像してしまうのは、想像力という知性を持ち合わせた人間には自然な反応ではないだろうか。そしてアダムは神の戒めを背いた場合の罰である「死」が何を意味するか、この時点で全く知らなかったのである。

 近視眼的な解釈をすれば、主なる神がこのような環境においてアダムに否定命令を下したのは不当だと思えるだろう。しかしこのエデンの啓示は、「律法の目的」と「御子キリストの義」という真理の啓示によってのみ、主なる神の真意が見出せるのである。

 

(2)へ続く

デスモンド・ドス氏の証し


映画『デズモンド・ドス―良心的兵役拒否者』*

 コメントにおいて紹介されたドキュメンタリーにとても心を打たれたので、記事でも紹介したい。「戦争とキリスト者」というテーマにおいて、このデズモンド・ドス氏が選んだあり方は、まさに「世の光」「地の塩」と言える証だと思う。

 ドキュメンタリーを観ながら、御子イエスの次の御言葉を思い出していた。

ヨハネ15:12-17

12 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。

13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。

14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

15 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。

16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。

17 これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。

 「友」どころか「敵」でしかなかった私たちの救いのために、御子イエスはご自身のいのちを捧げてくださった。

 御子は「あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」と友としての前提条件をつけながらも、直後に「わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。」と言われた。弟子たちはその時点で御子から知らされたことを行っていたのだろうか。福音書を読む限り、弟子たちの言動は御子の友としての前提条件を満たしていると言うには程遠いものであったことがわかる。それでも御子は「私はあなたがたを友と呼んだ」と言われたのである。

 私は御子の命じたことをどれだけ実践しただろうか。しかしその一方的な愛によって、御子は私を友と呼んでくださる。

 そして私の隣人、私のことを理解しようとせず、むしろ侮蔑し、敵対心を示す隣人の救いのためにも、ご自身のいのちを捧げてくださったことを気付かせてくださるのである。

 

追記(2017/01/25):

 ちなみにドス氏がセブンスデー・アドベンティスト教会の教えに従い、土曜日を安息日として尊守していたことがドキュメンタリーの中で語られているが、その尊守が「救いを得るために功徳」として扱われない限り、新約聖書の教え「ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。日を重んじる者は、主のために重んじる。」(ローマ14:5-6a)の教えに基づき、その選択は尊重されるべきだと思う。私個人は「どの日も同じだと考える」立場をとっている。

 以下の記事のコメント欄において、安息日に関する私の立場と「安息日を重んじる」立場の方の意見交換があるので、参照までに。

王の家の窓から見下ろすミカル - an east window

サン・レーオの要塞 カリオストロとフリーメイソン - an east window

 

追記2(2017/01/26):

 第二次大戦下のイタリアでは、武器をとって戦うことに対してだけでなく、武力を行使する軍隊に属することすら拒否し、ユダヤ人と同じ強制収容所に送られたキリスト者がいたという証を聞いたことがある。信仰によってドス氏のような選択肢を取るか、または強制収容所で自分の信仰による選択の責任を取るか。各自、主から与えられた良心によるものだし、何よりも、永遠の神の計画によって主が最適な器を最適な状況で用いるのだろう。

 

追記3(2017/02/05):

 ドス氏のテーマを扱った映画を観たが、大いに考えさせられた。というのは、沖縄における戦闘のシーンで、何度も仲間の兵士が迫りくる日本兵を撃ち殺すことでドス氏が守られる場面があったからだ。ドス氏自身、兵器を全く持たず、戦闘で傷ついた仲間の兵士の命を救うために戦場を駆け巡ったその勇気は驚異的だと思うが、それを「信仰的正義」と結び付けることができるほど単純な問題ではないのではないかと思う。

 例えば自分自身では偽証しなくても、友人や同僚の偽証によって自分が間接的でも何かしら益を得るとしたら、信仰者としてやはり良心の呵責を感じるはずである。

 また不正行為で得た金銭の献金を教会は受け取らない。教会自体、その不正行為を犯してなくても、間接的にその不正を承認することになり得る、と考えるからである。

 とてもデリケートな課題である。

「永遠の聖霊」によって、「永遠のあがない」が全うされ、「永遠の国」が与えられた。

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へブル9:11-15

11 しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、

12 かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。

13 もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、

14 永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。

15 それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。 

 「永遠の聖霊」「永遠のあがない」「永遠の国」

 御子イエスは「永遠の聖霊によって」、ご自身の命を十字架の上で捧げ、その死によって(「血」はその犠牲の死を証明するものである)、「永遠の贖い」を全うされた。それは御子を信じる者が、約束された「永遠の国」を受け継ぐためである。

 「永遠」とは、単に「時間的制限を超えた」という意味ではなく、空間という概念さえも超えた、不変でありながら活性であるという、まさに「生ける神のいのち」そのものの性質である。

 御子の死が「永遠の聖霊」によるものであるということは、霊である神のうちに犠牲の死の本質が内在していることを意味する。御子の十字架の死は、時間の流れの中のある時点において、宇宙空間のある一か所で起きた出来事であると共に、時間も空間も超越する存在である永遠の神の意志そのもである。

 旧約聖書において御子の贖いの死が「主の腕の顕れ」として預言され、神の民がその「永遠の腕」に支えられていることが啓示されている。

申命記33:27a

とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある

イザヤ52:13-15;53:1-5

13 見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。

14 多くの人が彼に驚いたように――彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである――

15 彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。

1 だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか

2 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。

3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 

 永遠の聖霊によって捧げられた御子の死は、彼を信じる者の良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者とすることができる、と啓示されている。時間と空間の制限の中に歩む私たちは、目先のことに囚われ、自分のビジョンや欲望を実現することに夢中となり、まるで一枚の絵を観るように私たちの過去・現在・未来におけるすべてを見る、「永遠」という神の視点を意識から追い出して生きている。

 今一度、「心に与えられた聖霊によって、生ける神に仕える」ということが、何を意味するか、祈りの中で光を求めよう。御子イエスの死が、そのような者にすることができると啓示しているのだから。

 主よ、十字架の御前に静まる心を与えてください。

「誰もあなたたちを騙すことのないように、警戒せよ」

マタイ24:3-14

3 またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。

4 そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。

5 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。

6 また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。

7 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。

8 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。

9 そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。

10 そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。

11 また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。

12 また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。

13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

14 そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。

 弟子たちの「あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」という質問に対して、御子イエスの回答は実に意味深い。

人に惑わされないように気をつけなさい。

 

誰もあなたたちをだますことのないように、警戒せよ。(岩波訳)

 戦争や争い、飢饉、地震などの出来事よりも先に、人間に惑わされないよう警戒しなさい、と教えているのである。それは、「多く人々」が自称キリストとか預言者を名乗り、「多くの人々」が惑わされ追従し、「全ての民」はキリスト者を憎悪の対象とし、苦しめ、殺し、不法が世に蔓延るため、「多くの人」の愛が冷め、「多くの人」が躓き、互いに裏切り、憎しみ合いからである。

多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。

人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。

あなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。

多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。

多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。

不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。

 つまりそれまでキリスト者に対して通常の人間関係で接してきた人々、さらにもっと親しい関係だった人々さえも、終わりの時には態度を変え、キリスト者を憎み、迫害したり、惑わしたりするように変わってしまうだろうと予告しているのである。その点、岩波訳「誰もあなたたちをだますことのないように、警戒せよ」という訳は、原文がもつ緊迫感をより上手く訳出している。つまり現時点では思ってもみない人まで信仰者を惑わしたり騙したりするようになるだろうという、実に厳しい状況を前提に警告しているのである。

 これは使徒パウロがテモテに書き記した「終わりの時に訪れる苦難の時代」の特徴と見事に一致する。

Ⅱテモテ3:1-5

1 しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。

2 その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、

3 無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、

4 裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、

5 信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。 

 「その時、人々は・・・となるであろう」とあり、「その時、世界経済は・・・」とも「その時、宗教界は・・・」とも、「その時、地球の環境は・・・」とも書かれていない。政治、経済、環境問題、文化、宗教などの枠組みと無関係に、「人間そのものが堕落し、苦難の元凶となる」ということである。

 主イエスが「多くの人々」が惑わす者となり、さらに「多くの人々」が惑わされ、「全ての民」がキリスト者を憎むようになるということは、主の再臨の前には最後まで忠実に残るキリスト者の数が極少数派になることを暗示している。このような預言を読むと、主の再臨の前になるべく多くの魂の救いのために祈り、働くのは当然ながら、一度は恵みを体験し、救いを受けた魂が惑わされて「大多数」に吞み込まれないためにも、お互いに御言葉と祈りによって励まし合い、助け合う必要があることを示している。これこそ、終わりの時に私たちが求めるべき霊的リバイバルの本質ではないだろうか。

 「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」 

 最後まで救いの福音を真っ直ぐ人々に宣べ伝える者としてありたい。

 

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「聖書の預言」と「偽預言者」

Ⅱペテロ1:19-21;2:1-3

19 こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。

20 聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。

21 なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。

1 しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。

2 また、大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである。

3 彼らは、貪欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう。彼らに対するさばきは昔から猶予なく行われ、彼らの滅亡も滞ることはない。

 章ごとに区切って聖書を通読する弊害は、章をまたがって啓示されている真理の十分な意味を汲み取ることを邪魔してしまうことにある。例えば今回引用した第二ペテロの1章と2章は、「しかし」という逆接の接続詞によって「書き記された聖書の預言」と「偽預言者」が対置されている。

 聖書の預言は「暗闇に輝くともしび」だが、偽預言者は「暗闇の中で欺き、利を貪り、追従者を滅亡へ至らせる」。「聖書の預言」が決して人間の意志から出たものではなく、聖霊の導きにより、神によって語られたものであるのに対し、「偽預言者」は人間の果てしない貪欲によって、滅びに至らせる異端の教えを「ひそかに」持ち込むのである。これは正しい教えを認識しながらも、それとは異なる教えを他の人には気付かれないように隠れて持ち込むという、明確な人間の意志、しかも邪悪な意志によるものであることを示している。なぜなら聖書の預言による教えの正しさを認識しているからこそ、自分の持ち込もうとする教えがそれとは異なるということを自覚できるのであって、その自覚があるからこそ、「ひそかに持ち込む」方法を取るのである。

 それゆえ、これらの偽預言者は聖書の教えのことを全く知らない、またその正しさを認めないような者でなく、それを知りつつも微妙かつ致命的に異なる教えを意図的に紛れ込ませる「内通者」である。

 だからこそ使徒ペテロは、「あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう」と言い、さらに「彼らは・・・自分たちをあがなって下さった主を否定して」として、兄弟姉妹の交わりの間に現れる偽教師が、主イエスに対する信仰によって贖いを経験していた者であったことを明記しているのである。

 それは同じ章の以下の聖句からも理解できる。

2:13

彼らは、真昼でさえ酒食を楽しみ、あなたがたと宴会に同席して、だましごとにふけっている。彼らは、しみであり、きずである。

2:18-20

18 彼らはむなしい誇を語り、迷いの中に生きている人々の間から、かろうじてのがれてきた者たちを、肉欲と色情とによって誘惑し、

19 この人々に自由を与えると約束しながら、彼ら自身は滅亡の奴隷になっている。おおよそ、人は征服者の奴隷となるものである。

20 彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。 

 またこの啓示は、使徒パウロがエペソの教会の長老たちに語った言葉によっても確認できる。

使徒20:28-30

28 どうか、あなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである。

29 わたしが去った後、狂暴なおおかみが、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群れを荒すようになることを、わたしは知っている。

30 また、あなたがた自身の中からも、いろいろ曲ったことを言って、弟子たちを自分の方に、ひっぱり込もうとする者らが起るであろう。 

 例えば誰かがいきなり兄弟姉妹の集まりの所へ行って、「スパゲッティー・モンスター教」について説いたとしても、誰も真に受ける信者はいないだろう。しかし同じ兄弟姉妹が通う教会の牧師が「神のしもべイエス様が父なる神に従って全てを十字架に捧げたように、私たちも主なる神によって召され、教会の上にたてられた権威に従い、すべてを捧げて仕えましょう」といくつかの聖句を引用しながら什一献金を求めたら、「アーメン。私も頑張らなきゃ」と思ってしまう兄弟姉妹も出てくるだろう。

 私たちは聖書の総合的な学びをもっともっと深め、「本物の教え」を知ることによって「偽の教え」を見極める霊的識別の賜物を求めるべきだし、また自分も同じ過ちに陥らないように祈り求める必要がある。

Ⅰテサロニケ5:16-24

16 いつも喜んでいなさい。

17 絶えず祈りなさい。

18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。

19 御霊を消してはいけない。

20 預言を軽んじてはならない。

21 すべてのものを識別して、良いものを守り、

22 あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。

23 どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。

24 あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。 

マタイ7:13-20

13 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。

14 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。

15 にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。

16 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。

17 そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。

18 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。

19 良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。

20 このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。 

Ⅰコリント10:12

だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。

ガラテヤ6:1

兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。