「ゆるい福音」と「十字架の言」
ガラテヤ3:1
ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。
ガラテヤ6:14
しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。
御子の死を通してこの世は十字架に架けられたことを霊的現実として知っているのに、なぜ私は救いの福音をまるで「この世にある無数の選択肢の一つ」、「ゆるい福音」として提示する圧力に屈しなければならないのだろうか。相対主義者が福音をそのように見做したとしても、否、それ以下と蔑視しても何ら不思議ではないが、信仰者はそうでないと信じている、はずである。
福音宣教のために召命を受けたはずの者が、自分は何者で、何をし、どこへ行き、どう感じたか、と自分自身のことばかりを語っていたら、主イエス・キリストがどのような方でその十字架のわざは何を意味し、何を私たちに約束しておられるかを全身全霊で探し求めている心の姿勢を第三者は感じ取れるだろうか。
福音は、「地の果てまで続く砂漠に備えられた唯一の泉」「焼野原に残った一本の果樹」「死刑場に向かう囚人のための恩赦の手紙」なのだ。「ゆるい福音」「そこそこに良い知らせ」などただの気休めで、真実を求める魂はその安っぽさにうんざりしている。
必要なのは「神にとって御子イエスの死が何を意味するか」をより深く知ることであり、その過程があってはじめて「御子を死から甦らせた神のいのち」がより現実的に顕れる。私たちの霊魂は、そのいのちの顕現を慕い求めている。
詩篇63
ユダの野にあったときによんだダビデの歌
1 神よ、あなたはわたしの神、わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む。水なき、かわき衰えた地にあるように、わが肉体はあなたを慕いこがれる。
2 それでわたしはあなたの力と栄えとを見ようと、聖所にあって目をあなたに注いだ。
3 あなたのいつくしみは、いのちにもまさるゆえ、わがくちびるはあなたをほめたたえる。
4 わたしは生きながらえる間、あなたをほめ、手をあげて、み名を呼びまつる。
5 (
6 わたしが床の上であなたを思いだし、夜のふけるままにあなたを深く思うとき、わたしの魂は髄とあぶらとをもってもてなされるように飽き足り、わたしの口は喜びのくちびるをもってあなたをほめたたえる。
7 あなたはわたしの助けとなられたゆえ、わたしはあなたの翼の陰で喜び歌う。
8 わたしの魂はあなたにすがりつき、あなたの右の手はわたしをささえられる。
9 しかしわたしの魂を滅ぼそうとたずね求める者は地の深き所に行き、
10 つるぎの力にわたされ、山犬のえじきとなる。
11 しかし王は神にあって喜び、神によって誓う者はみな誇ることができる。偽りを言う者の口はふさがれるからである。
詩篇73:25-26
25 わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。
26 わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。
「傷痕」
『生物と無生物のあいだ』
福岡伸一著(講談社現代新書1891)
P162、163から引用
よく私たちはしばしば知人と久闊(きゅうかつ)を叙するとき、「お変わりありませんね」などと挨拶を交わすが、半年、あるいは一年ほど会わずにいれば、分子のレベルでは我々はすっかり入れ替わっていて、お変わりありまくりなのである。かつてあなたの一部であった原子や分子はもうすでにあなたの内部には存在しない。
(引用終わり)
自分自身の体をじっくり観察して、火傷の痕や傷痕、手術の痕などが何か所にあるか数えてみたことがあるだろうか。そのような傷痕が全く無いという人はほとんどいないだろう。誰でも子供の時に遊んでて怪我した痕や、自転車やバイク、自動車の事故の怪我の痕、火傷や手術による縫合の痕など、改めて数えてみたら結構な数があるのではないだろうか。
よく考えてみればとても不思議ではないだろうか。生物学者が言うように、もし私たちの肉体の全てが分子レベルにおいて半年ですっかり入れ替わるのなら、なぜ外的作用による後天的な傷痕がそのまま残るのであろうか。肉体は傷口を治す力を持っているのに、傷痕をほぼそのまま残すのである。
歳月の経過と共に、肌はハリを失い、皺が増え、老いのしるしが確実に肉体の様相を変えていくのに、傷痕はほぼそのままの状態で残されていく。
こんな比較をしたら生物学者に笑われてしまうかもしれないが、例えば事故を起こして車のドアが凹んでしまったとする。上手く修理できても、よく見れば修理の痕跡を見つけることができるかもしれない。しかし完全に新しいドアに交換したら、事故の痕があるはずがないのである。
使徒パウロはキリストの十字架の福音によって回心し、全く新しい人生を歩みはじめた。それは回心前のパウロの「改良版」ではなく、「修復品」でもなかった。全く新しい、キリストのいのちによるものであった。
ガラテヤ2:19-20
19 わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。
20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。
Ⅱコリント5:17
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
それはまた一度きりの経験ではなく、内なる聖霊の力による、継続的な日々の体験であった。
Ⅱコリント3:18
わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。
それにもかかわらず、新しくされ、日々改新されていた使徒パウロの心には、回心前の「傷痕」が晩年に至るまでそのまま残っており、彼自身、自分の証しの中で何度も言及していたのである。
Ⅰコリント15:9
実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。
使徒22:3-5
3 そこで彼は言葉をついで言った、「わたしはキリキヤのタルソで生れたユダヤ人であるが、この都で育てられ、ガマリエルのひざもとで先祖伝来の律法について、きびしい薫陶を受け、今日の皆さんと同じく神に対して熱心な者であった。
4 そして、この道を迫害し、男であれ女であれ、縛りあげて獄に投じ、彼らを死に至らせた。
5 このことは、大祭司も長老たち一同も、証明するところである。さらにわたしは、この人たちからダマスコの同志たちへあてた手紙をもらって、その地にいる者たちを縛りあげ、エルサレムにひっぱってきて、処罰するため、出かけて行った。
使徒26:9-11
9 わたし自身も、以前には、ナザレ人イエスの名に逆らって反対の行動をすべきだと、思っていました。
10 そしてわたしは、それをエルサレムで敢行し、祭司長たちから権限を与えられて、多くの聖徒たちを獄に閉じ込め、彼らが殺される時には、それに賛成の意を表しました。
11 それから、いたるところの会堂で、しばしば彼らを罰して、無理やりに神をけがす言葉を言わせようとし、彼らに対してひどく荒れ狂い、ついに外国の町々にまで、迫害の手をのばすに至りました。
ガラテヤ1:13
ユダヤ教を信じていたころのわたしの行動については、あなたがたはすでによく聞いている。すなわち、わたしは激しく神の教会を迫害し、また荒しまわっていた。
これは信仰者の集合体であるキリストの体においても言える真理である。ある「体」の部位は、他の部位よりも深い「傷」を負うことがある。それは誰かが意図的に負わせた「傷」かもしれないし、自分の怠慢や不注意によるものかもしれない。
いずれにせよ、その「傷」は神の力によって癒される。しかし、その部位には周りの人々の注意を引くような「傷痕」が残され、それが恵みの福音のために用いられるのである。
私たちも、もっと私たちに対する主なる神の選びの御心と崇高な知恵に信頼し、キリストの恵みの証人として大胆に生きてもいいのではないかと思う。たとえ私たちの心が、「火傷の痕」や「傷痕」で覆われていたとしても…
Ⅱコリント12:9-10
9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
「兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか」(4)
Ⅰテモテ5:17-21
17 よい指導をしている長老、特に宣教と教とのために労している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしい者である。
18 聖書は、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」また「働き人がその報酬を受けるのは当然である」と言っている。
19 長老に対する訴訟は、ふたりか三人の証人がない場合には、受理してはならない。
20 罪を犯した者に対しては、ほかの人々も恐れをいだくに至るために、すべての人の前でその罪をとがむべきである。
21 わたしは、神とキリスト・イエスと選ばれた御使たちとの前で、おごそかにあなたに命じる。これらのことを偏見なしに守り、何事についても、不公平な仕方をしてはならない。
この教えの中には「長老」とあるが、基本的に「監督」「牧師」「指導者」「リーダー」などの呼称と同じ意味をもつ立場として考えることができる。要するに地域教会において、そのグループの霊的状態に対して「神に言い開きをすべき者」「魂に対して目を覚まして見張っている者」としての適性をもつとして判断され、選ばれた者を指す。
へブル13:17
あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて、従いなさい。彼らは、神に言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている。彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない。
Ⅰテモテ3:1-7
1 「もし人が監督の職を望むなら、それは良い仕事を願うことである」とは正しい言葉である。
2 さて、監督は、非難のない人で、ひとりの妻の夫であり、自らを制し、慎み深く、礼儀正しく、旅人をもてなし、よく教えることができ、
3 酒を好まず、乱暴でなく、寛容であって、人と争わず、金に淡泊で、
4 自分の家をよく治め、謹厳であって、子供たちを従順な者に育てている人でなければならない。
5 自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか。
6 彼はまた、信者になって間もないものであってはならない。そうであると、高慢になって、悪魔と同じ審判を受けるかも知れない。
7 さらにまた、教会外の人々にもよく思われている人でなければならない。そうでないと、そしりを受け、悪魔のわなにかかるであろう。
テトス1:6-9
6 長老は、責められる点がなく、ひとりの妻の夫であって、その子たちも不品行のうわさをたてられず、親不孝をしない信者でなくてはならない。
7 監督たる者は、神に仕える者として、責められる点がなく、わがままでなく、軽々しく怒らず、酒を好まず、乱暴でなく、利をむさぼらず、
8 かえって、旅人をもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、信仰深く、自制する者であり、
9 教にかなった信頼すべき言葉を守る人でなければならない。それは、彼が健全な教によって人をさとし、また、反対者の誤りを指摘することができるためである。
冒頭の聖句は、この「長老」「牧師」「監督」「指導者」「リーダー」に対する然るべき対応を三つのタイプに分類して教えている。(簡略にするため、今回は「牧師」の呼称だけを使う)
- 良い指導をしている場合、特に宣教と教とのために労している場合:その牧師は、二倍の尊敬を受けるにふさわしい。
- 誰かが牧師に対して批判・非難を訴えている場合:二人か三人の証人がない場合には、受理してはならない。
- 牧師が罪を犯した場合:他の人々も恐れをいだくに至るために、すべての人の前でその罪をとがむべきである。
1の場合、地域教会は十分な御言葉の糧によって育てられ、神に対する畏敬の念と御言葉の知恵と聖霊による喜びが兄弟姉妹の交わりを治めるので、ごく自然に指導者に従い、その教師が宣教と教えに集中できるように出来得る限り努力を惜しまないものである。
しかしどのような健全な教会においても、2の場合のように、指導者に対する批判・非難は必ず存在する。ある意味、地域教会を代表する存在として、また人前に立ち真理を教える立場として、それは避けられない現実である。しかしその現実は、それらすべての批判・非難を受理することを意味しない。それらの訴えが、真実に基づくかどうか確かめられなければいけないのである。使徒パウロがここで「受理してはならない」と命令したのは、エペソ教会をサポートするために遣わされていたテモテに対してだが、地域教会の兄弟姉妹の一人一人にも適用することができるだろう。つまり、ある教会の会員である貴方は、貴方の教会の牧師に対する訴えを、二人か三人の証人がいない場合、受け入れてはいけないし、聞いた訴えの言葉を確かめないまま第三者に伝えてはならない、という意味である。
また大事な点は、「二人か三人の証人」であって、「二人か三人の同調者」ではないことである。なぜならただ人間的な党派心などで、根拠もない訴えに同調する者も必ず出てくるからである。公に真実を証言する責任を負わない者は「証人」とは呼べないだろう。
この教えはモーセの律法を根拠としてもつもので、御子イエスも教会の教えの中で適用しているものである。
申命記19:15-20
15 どんな不正であれ、どんなとがであれ、すべて人の犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない。
16 もし悪意のある証人が起って、人に対して悪い証言をすることがあれば、
17 その相争うふたりの者は主の前に行って、その時の祭司と裁判人の前に立たなければならない。
18 その時、裁判人は詳細にそれを調べなければならない。そしてその証人がもし偽りの証人であって、兄弟にむかって偽りの証言をした者であるならば、
19 あなたがたは彼が兄弟にしようとしたことを彼に行い、こうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。
20 そうすれば他の人たちは聞いて恐れ、その後ふたたびそのような悪をあなたがたのうちに行わないであろう。
マタイ18:15-16
15 もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。
16 もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。
地域教会においては勿論だが、インターネット上のサイトやブログ、掲示板、SNSなどでも十分に注意しなければならない。匿名で教会や牧師を批判・非難する記事やコメントを目にした場合、事実を確認することなく拡散することは、悪に加担することになる可能性があることを私たちは肝に銘じておくべきだろう。
3の場合、それは実に痛々しいプロセスだと思うが、外科手術のように教会の健全化に必要なものだと思う。この聖書の教えを守った結果、義なる神に対する畏敬の念が教会に満ち、祝福されたケースは少なくない。ただこの聖句を悪利用し、指導者に対する根拠のない訴えを会衆の前で「ぶちまける」ケースも残念ながらある。その場合、会衆は2の教えを基に判断し、必要にならば3の教えを適用し、偽りの訴えをする者を公に咎めることになる。
その証人がもし偽りの証人であって、兄弟にむかって偽りの証言をした者であるならば、あなたがたは彼が兄弟にしようとしたことを彼に行い、こうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。そうすれば他の人たちは聞いて恐れ、その後ふたたびそのような悪をあなたがたのうちに行わないであろう。
「兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか」(3)
Ⅰコリント6:1-11
1 あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起した場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか。
2 それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、世があなたがたによってさばかれるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないのか。
3 あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、いうまでもないではないか。
4 それだのに、この世の事件が起ると、教会で軽んじられている人たちを、裁判の席につかせるのか。
5 わたしがこう言うのは、あなたがたをはずかしめるためである。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいないのか。
6 しかるに、兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。
7 そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。
8 しかるに、あなたがたは不義を働き、だまし取り、しかも兄弟に対してそうしているのである。
9 それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、
10 貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。
11 あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。
使徒パウロはここで、地域教会の中で起きた問題に対して「兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出す」、つまり公の裁判の場に持ち込み、裁きを不信者に任せることが、その地域教会全体にとって「恥ずべきこと」であり、「敗北」であり、「不義」であると断罪している。
- わたしがこう言うのは、あなたがたをはずかしめるためである。
- そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。
- しかるに、あなたがたは不義を働き、だまし取り、しかも兄弟に対してそうしているのである。
「恥ずべきこと」であるのは、その地域教会の中に「兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいない」ことを証明しているからだ。勿論、ここでは人間的な知恵や知的レベルについて語っているのではなく、「神の霊的賜物としての知恵」であり、それは信仰をもって求めるものには必ず与えられると約束されている種類のもの、「上からの知恵」だからである。
ヤコブ1:5-8
5 あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
6 ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。
7 そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。
8 そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。
ヤコブ3:13-18
13 あなたがたのうちで、知恵があり物わかりのよい人は、だれであるか。その人は、知恵にかなう柔和な行いをしていることを、よい生活によって示すがよい。
14 しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。また、真理にそむいて偽ってはならない。
15 そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。
16 ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。
17 しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。
18 義の実は、平和を造り出す人たちによって、平和のうちにまかれるものである。
また「敗北」であるのは、地域教会の中で起きた不義に対して、神の知恵や正義に委ねず、人間的知恵や地上的正義による裁きに委ね、それで自分に対して犯された悪に報おうとするからだろう。
ローマ12:17-21
17 だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。
18 あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。
19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
20 むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。
21 悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。
だからこそ使徒パウロは、このテーマの中で「神の絶対的・最終的な正義」を提示しているのではないだろうか。
Ⅰコリント6:9-10
9 それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、
10 貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。
神の義によって統治されている神の国のことを考慮せず、地上的な知恵と正義に裁きを委ね、自分の義を立てようとする行為が、「恥ずべきこと」であり、「敗北」であり、「不義」であると主張しているのである。
実際、たとえ自分はクリスチャンであると主張し、自分の正しさを公共の裁判の場で証明し、その裁判で勝訴したとしても、兄弟を訴えたことで主なる神に「恥ずべきこと」「不義を働いた」と判断され、「敗北」と見做されるのなら、私たちは神を畏れなければならない。
このようなことを考慮すると、教会の中で正しく裁こうとすることが神の恵みを損なうのではなく、むしろ「さばくな」「神は愛である」と言って問題から目を逸らし、対処する責任から逃避することが、その問題を教会の外へと追い出し、不信者の前に持ち出されることになり、キリストの体を余計傷つけることになるのではないだろうか。
「兄弟姉妹の交わりにおける健全な裁き」つまり御言葉を基として互いに訓戒し合うことを、神の愛や神の恵みと分離したり、対置してはならない。それは一つのものであり、神の栄光と私たちの救いのために互いに干渉し合いながら、キリストの体である教会に働きかけるものだからである。
Ⅰコリント13:4-6
4 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、
5 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
6 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
テトス2:11-13
11 すべての人を救う神の恵みが現れた。
12 そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、
13 祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。
「兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか」(2)
Ⅰコリント6:1-11
1 あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起した場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか。
2 それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、世があなたがたによってさばかれるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないのか。
3 あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、いうまでもないではないか。
4 それだのに、この世の事件が起ると、教会で軽んじられている人たちを、裁判の席につかせるのか。
5 わたしがこう言うのは、あなたがたをはずかしめるためである。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいないのか。
6 しかるに、兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。
7 そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。
8 しかるに、あなたがたは不義を働き、だまし取り、しかも兄弟に対してそうしているのである。
9 それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、
10 貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。
11 あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。
「あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起した場合、それを聖徒に訴えないで」
「あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、いうまでもないではないか。」
「いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいないのか。」
「そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。」
これらの言葉は、地域教会の兄弟姉妹の間で争いや問題が起きたら、問題を見て見ぬふりしたり、教会の外の解決策を求めるのではなく、まず何よりもその地域教会の交わりの中で解決すべきであること、また主イエス・キリストの名によって、また神の霊によってそれが十分に可能であるという前提で使徒パウロが書いていることが理解できる。
この箇所で解決の対処のプロセスに使われている動詞、「(聖徒に)訴える」「裁く」は、いずれも原語【κρίνω krinō】であり、【正確に区別する、決定する、判決を下す、非難する、罰する、結論を下す、考える、など】という広範囲の意味をもつ単語である。
また「仲裁する」と和訳されている原語は【διακρίνω diakrinō】で、【徹底的に区別する、識別する、試す、決定する、など】の意味をもつ。
「敢えて不義を受け入れる」「敢えて騙される」という行動も、その行動をする側が自分の方が正しく相手が間違っているのを確信しながらも、より高い目的のために不当な扱いを受け入れることだから、「識別する」「区別する」という行為が前提にあるのである。
つまり地域教会の中で問題を解決するプロセスには、問題の性質を見極め、善と悪に分離する行為が不可欠なのである。これは御子自身の言葉や使徒パウロの言葉でも確認できることである。
ルカ12:57
また、あなたがたは、なぜ正しいことを自分で判断しないのか。
ヨハネ7:24
「うわべで人をさばかないで、正しいさばきをするがよい」。
Ⅰコリント5:12
外の人たちをさばくのは、わたしのすることであろうか。あなたがたのさばくべき者は、内の人たちではないか。外の人たちは、神がさばくのである。
しかし実に多くの場合、マタイ7:1の「人をさばくな。自分がさばかれないためである」の一節だけが文脈から切り離されて引用され、目の前にある問題に光を当て、それを識別することまで「悪」と見なされる傾向がある。
しかしその文脈を読めば、それとは全く反対のことが主張されていることが理解できるのである。主が使ったシンボリズムに基づいていうなら、主は決して「兄弟の目に塵があることを指摘するな。あなたも同じ罪人なのだから、お互い目の塵について語るのはやめ、そのままにしておきなさい。愛し合いましょう」とは言っていないのである。むしろ「あなたの目にある梁をまず認め、そしてそれを取ってよく目が見えるようになったら、兄弟の目から塵を取ることができるであろう」と言っているのである。
マタイ7:1-5
1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。
2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
この基準は、マタイ18章の教会の交わりに関する教えとも一致する。
マタイ18:15-17
15 もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。
16 もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。
17 もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。
まず最初は罪を犯した兄弟と二人だけで責任の所在を明らかにし、それを認めない場合は、二人もしくは三人の証人の立ち合いの下で全てが確認され、それでも解決しなければ地域教会全体で問題に光を当てる、というのが、御子が教会に対して定めたプロセスである。この三段階はすべて、地域教会の中で行うよう命じられているのは明らかである。
御子イエスは、「私の体であり、花嫁である教会は聖なるものだから、争いや問題など決してない」とも「もし万が一、イザコザが起きても、教会の平和が乱れるから、むやみに追及したりしないように」とも「私の顔に泥を塗ることになるから、外にもち出さないように注意しなさい」とも言っていない。
むしろ「あなたたちに聖霊を通して授けた知恵によって、教会の交わりの中で一緒に解決するように努めなさい。それでもだめなら問題の人を交わりから断ち、『外の人』として扱いなさい」と言っているのである。
「外の人たちを義によって裁く」神は、全知全能であり、完全に公正であり、唯一のさばき主である。「外の人たちを裁く」ように、わざわざ人間に介入させなくても、ご自分一人で完璧に「内なる人たち」つまり「教会の兄弟姉妹」をさばくことができる方である。しかしそのような方が、問題に対して向き合うことを「内なる人たち」に委ねていることは、途轍もなく意味深いことではないだろうか。
(3)へ続く
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Ⅰコリント6:1-11
1 あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起した場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか。
2 それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、世があなたがたによってさばかれるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないのか。
3 あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、いうまでもないではないか。
4 それだのに、この世の事件が起ると、教会で軽んじられている人たちを、裁判の席につかせるのか。
5 わたしがこう言うのは、あなたがたをはずかしめるためである。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいないのか。
6 しかるに、兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。
7 そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。
8 しかるに、あなたがたは不義を働き、だまし取り、しかも兄弟に対してそうしているのである。
9 それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、
10 貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。
11 あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。
この第六章を読み解くにあたって、まず大事なことはその文脈を念頭に置くことである(それは聖書全体に関しても守らなければならない基本的なルールでもある)。コリント教会のある人々は、コリント教会の基礎を作った使徒パウロが自分たちの所に来ることはないだろうと考え、高ぶった態度を取り、その高ぶりは教会の交わり全体に悪影響を及ぼしていた。
Ⅰコリント4:18
しかしある人々は、わたしがあなたがたの所に来ることはあるまいとみて、高ぶっているということである。
使徒パウロはその高ぶりの顕れの一例として、近親相姦という不品行の罪のケースを挙げている。
Ⅰコリント5:1
現に聞くところによると、あなたがたの間に不品行な者があり、しかもその不品行は、異邦人の間にもないほどのもので、ある人がその父の妻と一緒に住んでいるということである。
「ある人がその父の妻と一緒に住んでいる」とは、「ある男が自分の父の妻と肉体関係を持っている」という意味である。「ある人がその母と」とは書いていないので、義母であったと思われるが、いずれにせよ、それは不品行の罪にあたる。
キリストの体の聖なる交わりの中でそのような罪を犯した者に対して、使徒パウロは「すでに裁いてしまっている」と言い、コリント教会に対してもそのような者を取り除くべきである、と強く訓戒している。
2 それだのに、なお、あなたがたは高ぶっている。むしろ、そんな行いをしている者が、あなたがたの中から除かれねばならないことを思って、悲しむべきではないか。
3 しかし、わたし自身としては、からだは離れていても、霊では一緒にいて、その場にいる者のように、そんな行いをした者を、すでにさばいてしまっている。
9 わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、
10 それは、この世の不品行な者、貪欲な者、略奪をする者、偶像礼拝をする者などと全然交際してはいけないと、言ったのではない。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる。
11 しかし、わたしが実際に書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば、そんな人と交際をしてはいけない、食事を共にしてもいけない、ということであった。
12 外の人たちをさばくのは、わたしのすることであろうか。あなたがたのさばくべき者は、内の人たちではないか。外の人たちは、神がさばくのである。
13 その悪人を、あなたがたの中から除いてしまいなさい。
使徒パウロはここで「外の人たち」と「 内の人たち」、つまり「教会の交わりに入っていない人」と「教会の兄弟姉妹」という二つのカテゴリーに分けて、「外の人たちの裁きは神が行うが、教会内の裁きは教会内で行うべきである」ことを教えている。
このような文脈上の前提を踏まえて、第一コリント6章の解釈を行うべきである。使徒パウロが「仲間の者との争い」「極めて小さい事件」「この世の事件」「兄弟の間の争い」という時、具体的にどのような争いや事件を指しているのか聖書は明らかにしていないが、6章の後半で再び不品行について触れているから、それに関連する争いや事件であったのかもしれない。
Ⅰコリント6:18
不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。
そして使徒パウロは、教会内で発生するそのような「仲間の者との争い」「極めて小さい事件」「この世の事件」「兄弟の間の争い」を対処するにあたって、「教会外の人たち」の前に訴え出て、裁きを求めることが間違っていると指摘している。
1 あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起した場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか。
2 それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、世があなたがたによってさばかれるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないのか。
3 あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、いうまでもないではないか。
4 それだのに、この世の事件が起ると、教会で軽んじられている人たちを、裁判の席につかせるのか。
5 わたしがこう言うのは、あなたがたをはずかしめるためである。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいないのか。
6 しかるに、兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。
4節はわかりにくいが、口語訳以外は以下のように訳されている。
(新共同訳)
それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。
(前田訳)
もし日常のことで争いがおこると、集まりの中で軽んぜられている人たちを裁きの座につかせるのですか。
(岩波訳)
それなのに、あなたがたが日常の訴訟を取り扱う場合に、教会において軽んじられている者たちを、〔よりにもよって〕その彼らを、あなたがたは〔裁判する者の席に〕座らせるのか。
(新改訳)
それなのに、この世のことで争いが起こると、教会のうちでは無視される人たちを裁判官に選ぶのですか。
勿論、パウロのこの言葉は教会の健全な交わりの中で、人間的好みや感情によって「無視され」「疎んじられている」人々がいる状態を承認しているわけではない。それはキリストの愛の教えや、使徒パウロ自身が教会内の分裂・分派を厳しく戒めている言葉に反するからである。
ここでパウロが言う人々とは、教会の交わりの中にいながらも選択的に罪の中に生き続けている人々、つまりパウロが5:11で本来霊的な交わりを持っていけない「兄弟姉妹」のことを指しているのだろう。それならば、矛盾はない。
5:11
しかし、わたしが実際に書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば、そんな人と交際をしてはいけない、食事を共にしてもいけない、ということであった。
地域教会の中で起きた事件や争いは、本来、「内の人たち」つまり、その交わりの中で「御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち」(使徒6:3参照)と皆に認められている信徒たちによって対処されるべきであって、コリント教会ではそれを「外の人たち」の公の裁判の座で、しかも本来教会の中では交わりを持つべきでなかった人々が教会の問題を裁く立場に就いていたことを問題視しているのである。
ちなみに当時のギリシャ都市国家アテネにおいて、職業としての司法官は存在せず、年齢30歳以上の市民ならば誰でも判事もしくは陪審員として選ばれる権利を持っていた。市民により直接選ばれた判事もしくは陪審員は、誓いをしたうえで法廷に立っていた。使徒パウロが「教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせる」と書いているのは、そのようなギリシャ都市国家の司法制度があったからである。
私は今回、6節「兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか」というパウロの鋭い問いかけに、一人のキリスト者としての自分と、インターネットの世界との関係を考え直すよう示された。このブログにおいて、自分が所属する地域教会の問題点を全世界の教会に共通する問題点として提示してきたつもりだし、個人と個人の問題をこのブログで公開するようなことはしたことはない。
ただインターネット上で自分が書く記事やコメントは、当然キリスト者だけでなく、聖書の知識もなく、個人的に救いを体験していない未信者の人々の目に入り、誰でも記事やコメントや誰かと議論を選り分け、コピーし、異なる文脈の中に取り込むことができることを強く自覚しなければいけないと示されたのである。
世間的にスクープやゴシップを扱った雑誌は今でもよく売れる。人の目には隠されているスキャンダルを暴露したり、激しい言い争いが見られる記事のPVは自然と増加する。それはキリスト教関連のサイトやブログでも同じことだろう。
ある意味、聖霊はコリント教会内部の様々な問題(近親相姦というスキャンダルも含め)を後世に伝えることを求めたわけだから、正直に言って私自身、断定できるようなバランスのとれた考えはまとまっていない。もしかしたらこの記事の内容も、多くの議論を生み出すかもしれない。隠蔽体質をもち、自浄機能を失ってカルト化した教会の場合、パブリックな場であるインターネット上で暴露するのは避けることができない手段だという意見も理解しているつもりである。
ただ今、「兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか」という使徒の問いかけが、私にインターネット上の信仰者の在り方について自省を促している。
(2)へ続く
人は見かけによらぬもの
普段の買い物に利用しているスーパーで、レジの台のところに商品を載せ終わり、ふと顔を上げると、自分の前にいる男性に目がいった。というか、メタリックな光の反射がまず視界に入った、と表現する方が正確かもしれない。服だけでなく、顔の部位にも私の工具箱の中にあるような金属片がたくさんぶら下がっている。いわゆるパンクスタイルの、20代後半ぐらいの男性がそこに立っていた。
「空港のセキュリティーでは大変だろうな」などとくだらないことを考えていたのだが、同じレジ台に彼が載せていた商品を見て、思わず二度見してしまった。ベジタリアン・ハンバーグの手前に、何と「Konnbu」や「Wakame」が置いてあるではないか!
イタリアでは最近の寿司ブームのおかげで、やっと大手スーパーでも和食の食材を取り扱うようになってきたが、イタリア人のモヒカン風カットのパンク兄さんが乾燥わかめや10枚入り乾燥昆布を買っているのを目の前にして、湧き上がる好奇心を抑えることはできなかった。さりげなく「これ、もしかして昆布ですか」と聞いてみたところ、想像していたよりはるかにデリケートなトーンの声で、自分の食体験を語ってくれた。何年か前にわかめと昆布を初めて食べ、とても美味しかったので、それからずっと食べ続けていると、少し照れ笑いを浮かべながら語ってくれた。味噌汁も豆腐も大好きらしい。
改めて自分がレジ台に載せていた食品が見直して、「イタリア人のあなたは健康的な和食を食べているのに、日本人の私ときたら、ほら、見て。羊乳のチーズとか生ハムとか...」と呟いたら、すかさずレジ係の女性に「チョコレートプリンとか...」と突っ込まれ、三人で大笑いした。
全く「人は見かけによらぬもの」である。
サムエル上16:7d
「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」 。