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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」の誤用

現代福音宣教の問題点 十字架の言 聖書による検証

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 『ティモシー・ケラー牧師の同性愛に関する偽りの教え』や『「同性愛」という鏡に映し出されている信仰者の在り方』のような意見を書くと、必ず「裁くあなたは一体何者か」という批判を受ける。そして有名な「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」という聖句が引用されるのである。

ヨハネ8:1-11

1 イエスはオリブ山に行かれた。

2 朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。

3 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、

4 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。

5 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。

6 彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。

7 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。

8 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。

9 これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。

10 そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。

11 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕

 しかしこのエピソードの引用は適切ではない。まず第一に、この箇所において主イエス・キリストは決して「姦淫が罪か罪でないか」について議論していないからである。主は「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言ったのであって、「この女は石打の刑を受けるようなことはしていない」とは言っていないからである。またこの女性に言った「今後はもう罪を犯さないように」という訓戒の言葉からも、主イエスは神の律法に従って「姦淫が罪である」と判断していたことが理解できる。

 しかしケラー牧師の議論においては、同性愛に関する聖書の教えの正当性が否定されている。新約聖書は「男色をする者は、神の国をつぐことはない」と警告しているのに対して、「男色をする者でも、永遠の裁きを受けることはない」として聖書の真理を変えてしまっているのである。

  そしてこの真理の歪曲こそが、私の批判の対象なのであって、私の目の前には具体的な同性愛者はいないし、新約聖書が同性愛者を死刑にせよ(石打の刑は、要するに「死刑」である)と教えているなどと主張し、「石を握りしめている」わけでもない。

 真に神を畏れる信仰者は、同性愛者に対しても、他のあらゆる罪びと(それは自分自身も含まれている)に対してと同様に、罪の赦しの絶対的必要性とその可能性を恵みの福音に従って証する。神が唯一の御子を呪いの死に至らせなければいけなかったほど、罪を憎み、かつ罪びとを愛し救いたいと願っていることを自ら経験によって知っているからである。その御子の死という壮絶な代価のゆえ、罪を罪とせず、罪の赦しの絶対的必要性をあざ笑い、御子の死に唾を吐くような行為に震えるのである。

 律法学者たちやパリサイ人たちが姦淫の女を連れてきたのは、律法に啓示されている神の真理を求めていたからではなく、主イエスを試し、訴える口実を得て、彼を殺すためであったこと、そして主イエスの言葉を聞いて姦淫の女に石を投げずにその場を黙って立ち去った民衆が、ピラトの前で「イエスを十字架につけよ」「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」と叫んだこと(マルコ15:13-14;ヨハネ19:15)は、同性愛に関する真理の歪曲の問題の覆われた本質を暗示していると思う。