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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

自殺について

 村上 密師のブログの記事『自殺は罪ですか

 これは本当に驚くべき内容である。その原因が何であれ、そして遺された人々が後からどのような説明を加えようとも、一人の魂が自ら命を絶つという選択行為は癒しがたい深い傷を残す。その選択は取返しつかない行為であり、遺された人々を完全な無力感の闇に突き落とす。

 だから自殺は、その選択をした本人の意思とは関係なく、遺された人々に対しての容赦ない「断罪」でもある。「あなたは私を理解できなかった」「あなたは私を愛せなかった」「あなたは私に寄り添うことはできなかった」と。

 しかし仮にも「自殺は罪ではない」と一人の牧師に言われた遺族や友人が受ける「慰め」とは、本質的に何なのだろうか。遺された人々はその言葉を聞いて、この世に対してだけでなく、自分に対しても繋がりを断ち切る選択をした故人に対して、「彼は今、やっと苦悩から解放されて平安の中に生きている」という希望をもつことだろうか。

 その慰めは、本当に神の愛に基づくものだろうか。それならば、現在言い表し難い苦悩の中に取り残された人々が、故人と同じ選択をすることを否定し、「神の愛により頼み、耐え忍んで生きていきましょう」と慰める根拠とは何なのだろうか。

 苦悩のうちにも神の愛を見出して生きる選択を捨て、自ら死を選んだ行為がもし赦されるなら、なぜ今苦悩のうちに生きている遺族や友人に、神の愛により頼み、苦悩を乗り越えて生きていくことを勧めることができるだろうか。

 生きるに値しなかった自分自身が、神の愛と恵みによって生きることが許されているのに、どうして自分の隣人が自ら命を断つことを容認することができようか。

 一人の魂に対する最終的な裁きは、牧師のものではなく、神だけのものである。地上に生きる私たちにできることは、御子の死さえも惜しまなかったほど私たちを愛し、私たちの救いを望んでいる神を畏れ、その御子の血の代価を伴う愛を通して、自分自身を含めた弱き魂に対して励ましていくことだけではないだろうか。

ヨハネ3:16

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。  

Ⅰヨハネ4:9-11

9 神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。

10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。

11 愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。 

 

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