an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

ナザレの謎(1)

 これから何回かに分けて書こうとしているテーマは、一般的にはタブー視されているものだが、随分前から多くの専門家によって提言されてきた内容である。表面的な人間はここぞとばかり聖書を批判し始めるだろうが、私の目的は勿論そのような皮相なものではなく、使徒パウロが語っている「キリストを肉ではなく、霊によって知る」というものである。(かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。 - an east window

 もっとも私自身もこれから扱う難解なテーマに関して、明確なアプローチと絶対的な解答をもっているわけではないので、試行錯誤しながら問題提起という形で進めていきたいと思っている。繰り返すが、私の目的は「キリストを知る」「聖書を信じる」ということが如何なる意味かを読者の方々と共に省察していきたい、というものである。

 まず出発点ともいえる聖句を引用する。

ルカ4:16-30

16 それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。

17 すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、

18 「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、

19 主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。

20 イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。

21 そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。

22 すると、彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った、「この人はヨセフの子ではないか」。

23 そこで彼らに言われた、「あなたがたは、きっと『医者よ、自分自身をいやせ』ということわざを引いて、カペナウムで行われたと聞いていた事を、あなたの郷里のこの地でもしてくれ、と言うであろう」。

24 それから言われた、「よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである。

25 よく聞いておきなさい。エリヤの時代に、三年六か月にわたって天が閉じ、イスラエル全土に大ききんがあった際、そこには多くのやもめがいたのに、

26 エリヤはそのうちのだれにもつかわされないで、ただシドンのサレプタにいるひとりのやもめにだけつかわされた。

27 また預言者エリシャの時代に、イスラエルには多くのらい病人がいたのに、そのうちのひとりもきよめられないで、ただシリヤのナアマンだけがきよめられた」。

28 会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ち、

29 立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした。

30 しかし、イエスは彼らのまん中を通り抜けて、去って行かれた。  

 ここでは当時のユダヤ教の慣習に従って、安息日にイエス・キリストがナザレの会堂で礼拝に参加している。そしてイザヤ書の61章を朗読し、その預言の成就を宣言している(21節)。初めのうちはイエスの言葉に感嘆していた聴衆も、彼らの不信仰を指摘する言葉に態度を一変し、皆憤りに満ちてイエスを即刻殺そうとしてしまう。

立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした。

 この29節は、まるで足元にあるありふれた小石のようだが、それを投げれば、目の前に広がる聖書の「湖」の水面の隅々まで行き渡るほどの波紋をつくってしまうものである。小石は沈むべき所に沈み、水面はやがてまた静けさを取り戻すことを信じて、投げ入れてみよう。

 そもそも、イエス・キリストが育ったと言われている現在のナザレの町には、人間を突き落して殺せるような「崖」が、地形上存在しないのである。むしろ西暦一世紀に村があったとされる場所は、緩やかなカーブをもつ丘に囲まれた低地の最も低いところで、今現在「Basilica of the Annunciation」が建っている場所だと言われている。(グーグルマップなどを使って実際に確認していただきたい。)しかし、聖書ははっきり「その町が建っている丘」( キングジェームス訳 the hill whereon their city was built)と書いてある。つまりイエスの故郷は、谷間もしくは平野ではなく、急な崖をもつ丘の上に建てられた町だったということになる。

 また地形学上の問題点だけでなく、考古学上においてもこのナザレという町は、大きな問題を抱えている。福音書においてイエス・キリストが宣教したガリラヤの町々、例えば冒頭の聖句にも出てくるカぺナウム、コラジン、そしマグダラなどには、西暦1世紀のシナゴーグの遺跡が発掘されている。また使徒ペテロの出身地ベツサイダにはダビデ王時代の遺跡さえ発見されている。

  • カぺナウムのシナゴーグ遺跡

f:id:eastwindow18:20091119142750j:plain

  • コラジンのシナゴーグ遺跡

f:id:eastwindow18:20141129183831j:plain

  • マグダラのシナゴーグ遺跡

f:id:eastwindow18:20141129183911j:plain

 しかしナザレにおいては、2009年に考古学者Yardenna Alexandreによって初めて個人の家と推測される遺跡が見つかっただけで、後は岩に刻まれた碑文ぐらいしか発見されていないのである。勿論、現在発見されていないことが存在を否定することにはならないが(ニネべの遺跡の発見のエピソードなどいい例である)、当時の町の中心的建造物であったシナゴーグの形跡が全く出てこないのは、上述の他の町々と比較すると実に不可解である。そして何よりも、イエスの時代にナザレがあった証拠として挙げられている前述の個人宅や他の考古学的発見は、崖の上ではなく窪地で見つかっているのである!

f:id:eastwindow18:20160408011558j:plain

 上の地図によれば、紀元一世紀にナザレの村があったと信じられている地点(受胎告知教会 ー 黒い部分)は、海抜340mで、ほぼ最も低い地点(海抜330m)である。

 地形学や考古学上の問題だけでなく、他にも難解な点がある。ユダヤ戦争(西暦66年)の時、ガリラヤ地方をローマ軍から守るために戦った司令官フラウィウス・ヨセフス(フラウィウス・ヨセフス - Wikipedia)は、彼の有名な著作『ユダヤ戦記』と『ユダヤ古代誌』において、ガリラヤ地方の45の町々の詳細を記録に残しているにもかかわらず、ナザレに関しては全く記述がないのである。ナザレから約6KMしか離れていないセッフォリス(現在はチポリ)については、言及しているにも関わらずである。

 三世紀の神学者オリゲネス(Origenes Adamantius, 182年? - 251年)は、地中海沿岸部にあるカイサリアのキリスト教学校で教えていたにも関わらず、60Kmも離れていないナザレの町がどこにあるのか知らなかった。

 その他、旧約聖書をはじめ、ガリラヤ地方の63の町々の名が記されているタルムードの中にも、ナザレの名は出てこない。

f:id:eastwindow18:20141129195431j:plain

(付録)イエス時代のガリラヤおよび周辺のマップ

 私が今の段階で、聖書の教義解釈や霊的観点には触れていないことに注意していただきたい。提起した問題点は、地形学・考古学・文献学におけるものである。

 次回は、聖書の中にある様々な記述と比較してみたい。

 

(2)へ続く